土中の君


 こちらは、たわちゃんさんへの依頼小説『土中の狗』、及び『土中の忻慕』の派生SSです。

 

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 急勾配の切妻屋根が四角い影を落とす早朝の中庭。ワーベイグの日中から夜にかけてを常に支配する乾燥した冷気と違い、朝の空気はにわかに湿り気を帯びて、乱反射した陽光が庭木を瑞々しく輝かせている。庭木と言っても細やかに手入れがなされているわけではない。ウィンガー家にはこれといって植物を愛でるような者はおらず、ここもごく一般的な建築様式に則って作られた形だけの庭園だった。

 この頃、ダニーはよくこの場所を訪れていた。もちろん草木を愛でにという訳では無い。その手には毎回、真白な花を一輪咲かせた百合の切り花が握られていた。ここには彼の墓があるのだ。名も知らぬ男の、小さな墓標が。

 

 中庭の東側、離れの傍の一角に一際高く聳えるイチイの巨木。いつだったか末の弟グラシアが目隠しにと勝手に植えたものだ。初めは小さな苗木だったそれも、樹齢数百年を超えれば庭の主然として、母屋と離れを見下ろすまでになる。ダニーは老木の足下に立ち、末弟のものだった離れの窓を覗き込んだ。曇ったガラス窓の向こうには、すっかり色褪せて白茶けた亜麻のカーテンがだらりと垂れ下がっている。グラシアは普段これといって人目を気にする質でもなく、ウィンガー家自体、家名の大きさの割に来る客も少ない。それでも彼がこの離れだけを一際外界と隔てたがったのは、ここが特別な空間だったからだろう。妹がよそへ嫁ぎ、弟が独立して家を出た後、グラシアもまた、何も言わずに出ていった。その日以来、屋敷の管理者としてただ独りとり残されたダニーは、ほとんどの部屋の家財を処分し鍵をかけて封鎖していたが、離れの建物にだけは手をつけられずにいた。小さな弟の宝箱を勝手に開けてはならないと、心のどこかでそんな風に思うからだ。

 

 “それ”が果たしてこの宝箱に収まらなかったのか、収まるべきでなかったのかは分からない。巨大な縄が幾重にも絡み合ったようなでこぼことした巨木の幹のすぐ下に、見も知らぬ他人の遺体が埋まっていようなどとは、当時住んでいた家族の誰も思わなかっただろう。

 

 

 あれはまだグラシアが医術院の学生だった時分のことだ。南部のとある旧鉱山の麓の町に研修に行った帰りのグラシアが、行きでは持っていなかったはずの大きな鞄を馬車から下ろすのをダニーは見た。人目をはばかったのか、彼はまだ夜も明けきらない朝早くに到着し、荷台から離れの玄関先に荷物を放り出していく。いつもの不眠で夜もすがらベッドに身を横たえているだけだったダニーは、物音に起き上がり母屋の二階の窓からこれを眺めていた。あらかた持ち物を出し終えたグラシアに、御者が何か話しかける。グラシアはしばしの逡巡をみせてから御者に追加の礼金を握らせ、最後に見慣れないあの大きな黒い鞄を大事そうに両腕で抱えて馬車を降りると、そのまま建物の中に消えていった。質の悪い御者に当たって気でも悪くしているのだろうか、弟が他の持ち物を玄関先に放り捨てたまま一向に取りに戻る気配がないのを見て、ダニーはお節介でも焼いてやろうと思い離れへ向かったのだ。まず驚いたのは、その臭いだった。離れの玄関先には冬の寒さに凍えた鼻でも分かる、明らかな死臭が漂っていた。

 グラシアは、その数多の才能と引き換えに生まれつき鼻がきかない。当然、この臭いに当人が気付けるはずもなく、それでもなお家族から隠そうと言うのだから鞄の中身は相応のものだろうと当たりがつく。医術院の研修期間は半年と聞かされていたが、まだ五ヶ月弱をすぎたところだ。街道の大規模工事の影響で近々南部と連絡が悪くなると知らされていたので特に不思議には思わなかった。けれど、他にも原因があったとしたら? 誰へともなしに後ろめたさを感じながら、ダニーは薄暗がりの中をイチイの下の出窓に向けてそろそろと音を潜めて歩いて行った。

 

 窓の向こうに見えるのは離れの居間だ。グラシアは生活面において非常な面倒臭がりで、この部屋のブルーグレーのカーテンが引かれているのは、ついぞ見たことがなかった。ほとんど真っ暗な部屋の中を、今は唯一の灯りであるテーブルランプの磨りガラスのシェード越しに、ほんのりとした炎が照らし出す。四方の壁におどろおどろしい形の影を作り出す飾り気の多い調度の数々は、彼らの母親が嫁入り道具に持ち込んだものだった。この離れは元々が母のために建てられた書斎兼住居だった。気難しい母はこの離れを気に入らなかったのかほとんど使っておらず、結局は彼女の寵愛を一身に受けていた末の弟に譲ってしまったというわけだ。その末弟はというと、たった今、窓に半分背を向ける形でソファに浅く腰かけ、ローテーブルに置いた鞄を開けようとしていた。

 グラシアの手によってようやく顕になった旅行鞄の中身を覗き見て、ダニーは文字通り息を飲んだ。想像するのと現実に突きつけられるのとではまた別だ。顔だ。死んだ男の、仰向いた顔。その黒灰色の素肌を、ランプの灯りの稜線が時折舐めるようにして揺らめく様を、グラシアは鞄の上からうっとりと覗き込んでいた。両の手が鞄から離れると、指先で小さな弧を描いて男の頬を撫で上げ、また撫で下ろす。ダニーの視線を遮るように、ベールのような白く細い髪がはらりと落ちて、二つの顔を覆い隠す。グラシアはそのまま男の頭の下に手を差し入れると、水を掬って飲むように、持ち上げたその額にそうっと口付けた。

 

 

 その後の記憶は曖昧だが、酷く混乱したダニーは気がつくと自室の天井を見上げていた。翌朝早く、グラシアは母屋の家族に帰宅を伝えると離れに帰っていった。その様子があまりに普段と変わりないため、ダニーはいつの間にか眠りに落ちて悪い夢でも見たのだと自身に言い聞かせた。ところが、グラシアの外泊中にふと例の夜のことを思い出し、いてもたってもいられずに出窓の外まで見に行ってしまったのだ。窓の向こうはいつも通りの有様だったが、ふと足元に違和感を感じて見下ろすと、イチイの根元に不自然に芝生の途切れた跡があった。出窓と幹のちょうど間、土の質感がそこだけ違っていて、中心には以前はなかった掌大の石が置かれている。が、そんなことはどうでも良かった。ダニーは自分のつま先に当たっているものを見て、全身から血液が抜けていくのがわかった。ところどころ肉の剥がれた五本の足指が、茸のように土の中から突き出していた。

 

 その男は、やはりダニーの知らない顔をしていた。顔と言っても、落窪んだ眼窩は既に地中の虫達の住居と化していて、剥き出しにされ土に埋もれた唇も鼻も、肉のあったはずのところには白い骨が見えている。耳は不自然なほど跡形もなく、また尾孔からは何も出ていない。酷く痩せている様子だが、特に目立った傷はないので病死か何かだろうか。死因不明、身元不明、種族も不明。衣類だけはグラシアが自分のものをあてがったのか上等のものを身につけていたが、それも端から土に還ろうとしていた。ダニーはその体がそれ以上崩れ落ちてしまわないよう、気をつけながら全身を亜麻布で包み、深く掘り直した穴の底に横たえた。土を押し固めてようやく一息つく。なぜ自分はこんなことをしているのだろう。ぼんやりとした虚無感に包まれながらも、最後の仕上げにと、グラシアがどこかから持ってきたに違いない角石を手に取った。そうして初めて、その石の上に枯れた植物が張り付いていたことに気がついた。花が供えられていたのだ。

 ―—あのグラシアが? その非凡さの代償を自らの孤独で支払っているグラシアが、人目を忍んで墓を作り花を供えて弔うほどの。

 

「一体君は誰なんだ」

 

土の中に問いかけても、当然のように返事は返って来なかった。

 

 

 それからというもの、ダニーは度々イチイの下の墓を気にするようになった。それを“墓”だと思うのは恐らくダニーと、これを設えた張本人であるグラシアのみだろうが、相変わらず不自然に鎮座する角石の下には、時々花が供えられていた。花壇から適当に見繕ったものだろうか、それは観賞花であったり雑草の花であったりと種類はまちまちだったが、白いものが多かった。しかし、年月を経るにつれ、献花は年に一度になり、十年に一度になり、やがて百年の間が開いた。その百年の間に、グラシアは竜都へ行って唯一無二の友を作り、父の病院を継いで医者になった。母の看病をしその最期を看取ると、ついには病院を兄のディーンに押し付けて、竜都へ移り住んでしまった。彼が再びこの離れに帰ってきたのは、魔孔災害で医術院に呼び戻されたからだ。災害が終息し、ある日突然屋敷を出ていくその時まで、彼があの墓へ花を供えることはついに無かった。

 

 

 ダニーは、数百年の時を経て、すっかりイチイの根に絡め取られてしまった角石を見下ろした。そこにはまだ、彼が以前供えた白花の残骸がくったりと横たわっている。

 

「私がこうして、グラシアの行為を引き継ぐことには何か意味があると思うかい」

 

 いつものように、枯れた花をそっと避け、新しい花を角石の下に置く。ふと見ると、太い根の隙間から、新芽が健気に顔をのぞかせていた。まだ雪解けからも間もないが、今年の春はすでに例年よりも暖かい。それは、冬の権化がこの世界を去ったからかもしれないとダニーは思った。風の噂では、世界全土に渡っていたグラシアの捜索が、ようやく打ち切られたそうだ。竜の配下でも見つけることが出来ないのなら、もうきっと、彼はこの世界のどこにもいないのだろう。

 

「さようなら、土中の君」

 

 もう二度と会うことのない弟の代わりに、ダニーはそっと呟いた。