“家族も身寄りも夢も希望もないその日暮らしの労働者の男”と医学研修生のグラシアの話
(※)『土中の狗』その後
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「――――俺の知る限りじゃあ、あいつにはなんの身寄りもなかったはずだが、」
沈黙に堪えかねて、先導していた男が俄かに切り出す。もう幾度目になるものか自らの後方へちらりちらりとやる瞳、その中央で横たわる瞳孔は水平だ。
「先生見習いさんは、いったいなんの縁があってあんな奴を引き取ろうってンだい?」
言葉通りにわけがわからないという顔をして、中年の男は自らの白く長い髭をしょりしょりと触る。
男が雪に刻んだ足跡を辿るように進む青年は、白い息を「ほう」と淡く吐き出して質問に質問を重ねた。
「彼からはなにも?」
「特には。なにかあったときには、あんたに連絡をつけるようにとだけ」
「そうですか。では、僕も予てより約束をしていたのだとだけお伝えしておきましょう」
「ふん。ま、やたらに首を突っ込むつもりはねえがよ……」
言いながらにまたちらりと、男が後ろを確認する。
こうして頻りに背後を気にするのは、なにも案内人としての責任感を強く抱いているからといったわけではないだろう。自らの血肉を成す元始(げんし)の生存本能が、肉を食らう獣に無防備に背中を向け続けることをよしとしないのだ。声が震えてなにかと動きが忙しないのは寒さのためではなく、全て怯えのためだった。
他の地域でも肉食獣が草食獣に不用意に近付いて驚かせてしまうという光景はたびたび見られるものだが、この町の獣たちは肉食草食を問わず飼い慣らされた被食者としての性質を獲得していると、医学研修生ことグラシア・エル・ウィンガーは強く感じた。
グラシアの前を往くのは、雇われながら炭坑の取締役なるものを担う山羊族の男だ。
元は堂々と天を衝(つ)いていたのであろう山羊角は、ほぼ根元より手折られている。怪我がよくない治りかたをしたのか、右耳は奇妙に折れ曲がり、左耳に至ってはその半分より先が千切られたようにない。
不意に虐待による傷痕をじっと見られていることに気付いたか、男は煤に汚れた顔を青黒くして素早く顔を逸らす。
それでも、逃げようとさえしないのだ。その身に脈々と継いできたはずの、岩場を駆け巡り外敵には雄々しい角を振り翳(かざ)した有蹄の戦士としての誇りはすでに過去のものと見えて、今目の前にいる彼は飾り窓に並ぶ加工肉に等しい。
首都コンツォルトから辺境の炭鉱町へ赴任してきて早くも数か月が経過していたが、グラシアの抱く印象はここへやってきた当初からずっと変わっていない。
この町は謂わば屠畜場(とちくじょう)で、住人らはそこへ囲われた家畜だ。そしてその体質は、恐らくは不変であり続けるのだろう。
もう山羊が口を開くことはなく、グラシアもまた取り立てて沈黙を嫌う性分でもなかったから、ふたりして黙ったままで雪を踏みしめる。
ふたりぶんの白い吐息がもくもくと立ち上っては、ふっと消える。
グラシアが案内されたのは炭坑の前、元は敷き詰められていたのだろう、剥がれかけの古びた線路を避けるようにして建つ一軒のちっぽけな小屋だった。
小屋の中は雑然としており、少し埃っぽい。グラシアはひとつ空咳をこぼす。鉱石や炭を掘り出すためと思しき鶴嘴(ピッケル)や鎚(ハンマー)などがぎっしりある。
そしてその数々の作業道具の中に紛れ込むようにして、寝袋はあった。麻で織られた寝袋は重たそうにごろんと転がされていて、山羊族の男がそれを顎でしゃくって示す。
「あれがそうだよ。後はもういいか? 俺も暇じゃないんでね」
「ええ、どうも。ご案内、ありがとうございました」
「別にあんたのために役立ってやろうとしたわけじゃねえ」
「ええ、ええ。じゅうぶん承知の上ですとも。――それでもです」
微笑み手を振って見送るグラシアを、山羊は振り返りもせず立ち去っていく。
やがて男の姿がすっかり見えなくなってしまうと、ようやくグラシアは膝を折り、霜の降りた寝袋をそっと開いた。
中にはひとりの獣人族の青年がいる。
ナマエだった。
「こんにちは、ナマエさん。いくらぶりでしょうかねぇ。あなたは、ほとんど病院へはいらっしゃらないから」
固く目蓋を閉ざした顔へ、グラシアは穏やかに笑いかける。笑みと共に吐き出した息がまた白く上っていく。
――瓦斯(ガス)が、噴き出したのだという。
楽には死ねそうにないから生きているのだと語った彼は、グラシアの赴任期間も終わらぬうちにそれであっさりと死んだ。死んだのは若い男手だからと誰よりも奥深くの作業場まで追いやられていたナマエひとりきりだった。他の比較的入り口近くで作業をしていた炭鉱夫らは、そのうち一部が体調不良を訴えたことで瓦斯(ガス)突出が発生したことを悟り、一目散に逃げ出した。
幸い引火して鉱山どころか町ごと吹き飛ぶといった惨事は免れたものの、充満した瓦斯(ガス)がすっかり流れていってしまうまで炭坑は立ち入りを禁じられた。
おかげで、グラシアは彼の身体が運び出されるまで数日を待たねばならなかった。
「お好きな花を訊ねておくべきでしたねぇ」
語りかけながら手を伸ばし、グラシアは固く冷えた彼の頬へと指を触れる。そのまま蟀谷(こめかみ)から額へと上へなぞり上げて、また下へなぞり、目蓋を縁取る凍りついた睫毛のつんとした感触を知る。
こんなことを言うのも妙な話だが、なんとも美しい屍体だった。
ナマエの肉体は経過した日数ほどには傷んでいない。血の気の失せた浅黒い肌をびっしりと覆う薄霜さえなければ生前とほぼ変わりなかった。それどころか、死してようやく安穏のなんたるかを知ったかのように安らかでいる。実に穏やかな死に顔は、ただ眠っているようにすら見えた。
ワーベイグの永久凍土が冷凍庫の役割を果たしてくれたおかげだろう。彼の身体は本当に保存状態がよかった。
また、即死だったのもこの美しさを手伝った。彼の命を摘み取ったのは、極端に酸素濃度が低い瓦斯(ガス)をもろに吸い込んだことによる酸素欠乏症だ。ナマエはほとんど昏倒するのと同じように死んだのだろう。下手にじわじわと長く苦しむ窒息死であれば、こうも穏やかな顔つきはしていなかったはずだ。
深き淵に立ち、自ら底の見えぬ昏闇を覗き込んでいたナマエ。死の間際に、彼はなにを思っただろうか。
やはり、なにを思う間もなく逝ったのだろうか。
それとも、死を恐れただろうか。
それとも、それとも、それとも――――。
グラシアが捧ぐ花の夢を枕辺に敷いて、心穏やかでいたのだろうか。
骸は物語らないし心を抱かないから、今となってはそれを知る術はグラシアにはない。
グラシアはそうっと顔を俯けて、ナマエの頬へ自らの頬を擦り寄せた。痛いほどに冷たい、ざらついた氷の感触を肌で感じ取る。
「……なんともはや、」
仄かな熱を宿した吐息が白く形を成しては、揃いも揃って宙に融け消える。冷えた空気はグラシアの薄い皮膚をした眦(まなじり)や鼻に、強かに紅を差す。
口を利かぬ者。命のない肉塊。
――虚ろを恐れた、謂(いわ)れなき土中の獣よ。
「――――あなた、見違えるようですよ」
返事は、ない。