土中の狗

“家族も身寄りも夢も希望もないその日暮らしの労働者の男”と医学研修生のグラシアの話

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 竜都の東に位置する厳寒の地――ワーベイグ地方。険しい山岳地帯とそこへ寄り添うなだらかな平野――つまり盆地とからなるその大地は、並ぶ四つの地方の中でもとりわけ広大な面積を擁している。

 ――が、如何せん住みにくい。

 冬だけとびきり寒いというだけならまだしも、身を切るように厳しい冷え込みが年がら年中続くのだ。その寒さがため、腰を据えて居を構えようなどという奇特な者は当然そう多くはいない。結果ワーベイグの地はそのありったけの広々とした土地を大いに持て余していた。

 しかし、どんなところにも利を見出し住みつく者はいるもので。

 寒冷地ワーベイグの片隅に忘れ去られたかのごとくある小さな町がある。恐るべきことだが、ただでさえ人が住むには適さない気候であるワーベイグ地方においてその町はさらに寒かった。山の裾を踏むようにしてある町であるからして、脈々と連なる山岳が東から登る日を大きく遮るのだ。

 そして極めつけには山から町へと吹き降ろす寒風だ。山の頂上付近できんきんに冷やされた空気が、まるで氷の巨人がふうふうと激しく息を吹きかけるようにひっきりなしに雪崩れ込んでくるのだ。これが、大変にキツい。

 

 それでもこの地に人が住み着くようになったのは炭鉱があったからだ。

 山麓の町は、石炭で富を成した典型的な炭鉱町でもあった。

 

 炭鉱町は麓に沿ってというより、正しくは山に穿たれた炭坑に纏わりつくようにして形成されていた。

 昔は山から石炭を中心に鉄や多少の貴金属も出たというから、町はそれで生計を立てていたらしい。そうして小金を得るたびにまたぱらぱらと人が集まり、町は歪に広がっていった。

 しかし石炭鉱業で発展というほどの盛り上がりはないまでもある程度の賑わいを見せていた町は時を経るごとに凍土に身を縮こまらせて、今やすっかり沈黙している。

 考えてみれば当然も当然の話だが、資源というものには限りがあるのである。それに気付いた人々は我先にと最早この先寂れゆくだけの町を捨てて去っていった。

 だが、厳しい寒さを越えていくためのたくわえ(・・・・)や頑強な肉体を持たない者は出ていきたくとも出ていけず。結果として町には揃いも揃って屑石みたいな奴らばかりと、その屑石を好き勝手踏みつけるしか楽しみのない富豪とそれに付き従う少々の金満家だけが取り残された。

 

 故に、この町は死んでいた。いや、それどころかすでに腐り始めていた。蛆に食われきるのを待つばかりだった。

 

 産炭地としていくらか知られていたのも過去の話。今はほとんど掘り尽くされた鉱山から出る残滓のような石炭やいくらか前に制定されたとかいう救貧法だのなんだのの一環で施される鼠族の食い残しほどの助成金、それから金持ち共が気まぐれに落とす小銭。その僅かばかりのあてだけで、町は腐った身体を押し固めてどうにかそれらしい形に見せていた。

 

 目に痛い鋭角の屋根を頭に被せた家々がちまちまと軒を連ねている。そしてそんな人の住む小屋を威圧するように建つ、不似合いな屋敷。腐った土地にお似合いの腐れた輩しかいない、誰からも顧みられない名もなき山麓の町、――そこが、俺の住んでいる肥溜めの町だった。

 

 

 いっそのこと、ゴミ山から勝手に産まれてきたのだというほうがまだ救いがあった。だけど結局のところ俺はどうにも知れない由来と誰かと誰かの織り成す縁の末に産まれ落ちた命だったから、多分、一生救われないのだろう。

 親はない。親類もきっとない。意識が明瞭になって自分と自分以外の区別がつくようになったときにはもうすでに孤児院にいて、俺は腹を満たすためにいくらかの子供たちと一緒に町のゴミを漁っていた。慈善活動の一環という名目で建てられた孤児院の環境は劣悪で、そこにいるほとんどの子供たちはいつも腹を空かせていたからだ。多分に漏れず、俺もそうだった。

 院には名ばかりの管理人と最低限子供たちが死なない程度に暖炉の火の管理と少ない食事を用意する数人の世話係がいたのだが、これがあからさまに酷かった。奴らは子供たちの容姿を見て選好みをしていて、雪の妖精のように肌が白く華奢な子供は下にも置かない勢いで大事に扱っていたが、俺みたいに生来肌が薄く煤けたように黒ずんでいたり痣があったりする子供は粗雑に扱われ、消費された。

 例えばその扱いの最たるものとして、俺には耳と尾がない。しばらくはついていたが、硝子窓や水鏡で自分の姿を覗くという頭もないうちに奴らに戯れに毟り取られたのだ。

 随分後になってから知ったことだが、それは通常罪人とか、奴隷なんかに与えるような刑罰に近いのだという。人を人とも思わぬ侮蔑に満ちた醜悪な行為だったが、その場にいた誰しもにとって俺は人ではなかったので止める者はいなかった。

 

 ほとんど襤褸(ぼろ)雑巾と変わらなかった俺に買い手がついたのは、そのすぐ後だ。

 

 俺を買ったのは外からの客ではなく、町を取り仕切る富豪の女だ。

 女主人はまず、俺にじゅうぶんな寝床と食事を与えた。もちろんそれが完全な厚意からなる慈善活動であるはずもなく、奴は俺がまともに起き上がれるぐらいになった頃に「最近死んだペットの代わりに毛色の違うのが欲しかったの」と笑った。

 それからは、毎日のご奉仕と引き換えに飯が与えられた。自ら望んで傅(かしず)いた覚えは一度もないが、それでも日々の糧が得られるのならそう悪いものでもなかった。

 俺が身体の一部をなくすよりも少し前。一緒に生ゴミを漁っていた、顔の右半分に大きな痣を拵えながらもそこそこに見てくれのよかった少年が、無茶な行為を強いられたのであろう末に殺されてしまったのが未だに色濃い記憶としてあったからだ。

 俺を含めた子供たちで穴を掘って可哀想な少年を埋めてやったが、翌朝には院長に掘り返されてどこかへ捨てられてしまった。

 

 ――そんな彼の境遇を思えば、少なくとも俺はまだ幸運だったと言えるはずだ。

 それに俺を買った女主人はどこの馬の骨とも知れない薄汚い孤児にどんな思いつきがはたらいたものか、言葉を習わせた。文字の読み書きまでは十全とはいかなかったものの、さほど不自由なく口を利けるようになった後で捨てられたから、おかげで放り出されてからも日雇いの仕事を強請ることぐらいはお手のものだった。

 

 

 どんな陰惨な場所にも平等に時は流れて、月日が経つ。元女主人は狭い町に飽きたか家財をほとんど処分し、でかい屋敷はそのまま放置してどこかへ消えていったし、孤児院の院長らも後を追うようにして出ていった。町には心身の隅々まで無力感を教え込まれ、嬲られることを諦めた人々と、性根の腐った小金持ちだけが残された。

 

 医学研修生だのという男がやってきたのは、そうやって町から人が少しずつ消え、俺が自分の身体ひとつで日銭を稼ぐことにじゅうぶんに慣れた頃だった。

 

 

 昼飯時にもなろうかという頃合い。俺は人気のない通りを歩いていた。

 昼といっても周囲は薄暗い。それは傍でそそり立つ山岳のためでもあるのだが、なにも山が太陽に立ちはだかっていることばかりが理由というわけでもない。むしろ今日は比較的日が出ているほうだった。

 だのに靄がかかったように仄暗いのは、炭坑から出る炭混じりの粉塵へ山から降る風がまともに吹き付けて舞い上がり、常に町全体を覆い尽くしているせいだ。そのせいで辺り一帯はいつでもぼうっと暗い。

 これは頻繁に石炭が掘り出されていた頃からずっとそうで、ちゃんと町を訪れる者があった頃には遠目にも麓に鼠色をした赤ん坊が四肢を丸めて蹲っているように見えると言われたほどらしい。

 「ビュッ!」と雪と炭のにおいを纏った吹き降ろしの風が頬を辛辣に引っ叩くので、首を竦めて手に入れたばかりの毛皮のコートを厳重に身体に巻きつける。

 買ったのではない。昨晩酒場に引き摺り込まれ、「ひと晩を越すための灰皿を用意できたなら、小金と酒をおまけにつけてくれてやる」と言われて受け取ったものだ。毛はところどころ剥げかけているし、元は深い色をしていたのだろう裏地はなんだか白茶けたようになっているが、穴がないだけ上等だろう。

 ワーベイグ地方の深夜から明け方にかけては深刻に命に関わる時間だ。俺のように壊れかけの家に住みながらまともな防寒具や身中を灼く酒が手持ちにない奴は明朝凍死していてもおかしくない。

 持っていた上着は何年も着古してせいぜい風除けぐらいにしか役立たなくなっていたし、酒ももう残り少なかった。小さい火傷程度はすでに痛くも痒くも感じなくなっていた俺は、ほとんどタダでそれらがもらえるならと特に抵抗することもなく手のひらを差し出した。

 金を溝に捨てるに等しい行為にも関わらず男は金を出し渋ることはなく、それどころか俺の従順な態度を甚く喜んで次々安酒を飲み干した。どんどん空になる杯に機嫌をよくしたのは酒場の主人だ。おかげで寒さが多少和らぐ頃合いまで店の床を寝床に貸してもらえることになった。

 

 そうして目覚めた今、酒場から住み家に帰ろうというわけである。

 

 俺が今住み着いているのはかつてあの女主人が住み、また自分自身もペットとして間借りしていた過去のある邸宅だ。女主人が少しの金も惜しんで家の中のものをほとんど処分したので中はがらんとしていたし、手入れをする者がないせいで朽ちかけてもいたが、部屋数が多いぶん外の冷たい空気が隔たれていて、案外居心地がよかった。孤児院とは違い、あまり悪い思い出がなかったということもあるだろう。

 血も涙もない風の手が今度は俺の首筋を撫でてきたから、つい速歩(はやあし)になる。

 俺の主な稼ぎ場である炭坑は毎日人が出入りして稼働しているわけではない。酒場の壁にかけられた掲示板にある仕事の募集も目ぼしいものはなく。これ以上出歩いている理由はなかった。

 盆地霧が未だしつこく居座る道を往く足をさらに速める。ほとんど小走りになっている。すぐ真横で「ビキッ」という音がしたのは、住民が消えて荒れ果てた廃屋を通り過ぎるか過ぎないかぐらいのときだった。

 はっとして身を翻そうにも冷えて凝り固まった四肢は軋むばかりでてんで使いものにならず、崩れ落ちた壁材がすぐ足元の地面で砕け散る。割れた破片は四方八方に飛来し、そのうちひとつが始末の悪いことに俺の腕をざっくりと裂いた。せっかく手に入れた穴のないコートや、内に着込んだ衣服ごとである。

 小さく悪態をついて咄嗟に傷へ手をやる。鼓動と連動してどくどくと流れ出す血が熱い。さして痛むわけでもないが気分は最悪だった。コートと服が破れたせいもあるが、一番はもちろんこの傷だ。

 煙草の火傷くらいはどうということもないのだ。しかし、こういう傷はなんともよくない。

 この町には住人のいないままに放置されている家がちらほらとある。人が住まなくなった家というものは急速に傷むのだが、金も出ないのに危険性を鑑みて事前に打ち壊してやろうなどという善意の輩は俺を含めてこの町にはいないから、こうしてなにかの折に崩れたり、酷いときにはすっかり倒れてしまったりする。

 以前にも仕事へ行く道すがら似たようなことがあって、そのときはちょうど俺の少し前を歩いていた男が軽い怪我を負った。その男は仕事に向かっているところだし、なにより金がないからと傷を放置して、結果利き腕を腐らせたのだ。あれは中々に悲惨だった。思い返すだに総毛立つ。

 唯一の町医者となって久しいあのいけ好かない男は、割高で雑な仕事をすることでよくよく知られている。住人らから好んで顰蹙(ひんしゅく)を買い叩いているようなとんでもない男だが、それでいて患者の仕事に大きく影響を齎すような怪我はきちんと診るし、診療代もある程度は適正価格に近くなる。患者の数やひとりあたりの収入が減ることで、結果として自分の儲けが少なくなることを嫌うからだ。

 俺はひとつため息を溢して道を引き返した。泡銭(あぶくぜに)はその名の通り、すぐさま消える定めにあるらしい。

 

 

 俺が例の研修生とやらの存在を思い出したのは、病院の中に足を踏み入れたときだ。

 

 病院の、氷が張り付いて濁った欄間付のドアを細く開けて身を滑り込ませる。無遠慮に開け放って屋内に風を吹き込ませようものなら医者が空の酒瓶を投げつけてきていらぬ怪我が増えるためだ。それを了解しているから、病院に用があるときはみんな慎重になる。

 しかし、受付にあの小憎たらしい顔つきの医者はおらず、代わりにひとりの青年が座してなにやら作業をしていた。

 白犬だ。思わず瞠目する。

 

「おや、」

 

 まったりとした声が上がる。

 俺の驚嘆などいざ知らず、青年のふっくりと大きく柔らかそうな両耳が先立って立ち上がり、次いでおもむろに顔が上向きになった。影の落ちていた相貌が壁掛洋燈(ウォールランプ)に照らされて、露になる。

 

 ――――山だ。

 そして、そこから吹く風だ。

 

 なんとも間抜けな感想だが、俺はこの男の形(なり)をはっきりと認識してから瞬時に厳しく聳(そび)え立つ山と吹き荒ぶ酷く冷たい風を想った。

 重たい脳みそが頭蓋の外にまで怜悧な空気を醸し出すような狗族の青年。彼こそ、この町へおいでなすった研修生殿だ。

 当初よくわからん耳慣れない輩が医者でもないのに病院へ働きにやって来たと町の奴らが色めき立っていたのをぼうっと聞いていたが、なるほど、こうして間近に対峙してみればこれは確かに騒ぎたくもなろう。世にも珍しい白犬だということも相俟って、この町では到底お目にかかれやしない、美々しくも気品に溢れる御姿である。

 白犬というやつはどれも皆(みな)こんな毛色をしたものか、それともこれは彼固有のものなのか。艶のある毛並みはまるで新雪に薄墨を溶かし混ぜたような灰白色をしていた。ただ顔を上げた、それだけの静かな仕草にさえ容易に毛先が燻るのは、その毛の一本一本が実に細やかだからだろう。

 曝け出された右の瞳はきんと冷えたアイスブルー。例えばどんなものからでも色を汲み上げる魔法の筆があったとして、その先をちょいと山風に突っ込んでみたんならば、ちょうど彼の目の色と同じような具合になるはずだ。

 そして髪や瞳の冴えた色調もさることながら、特に目を惹いたのがその白い肌だ。

 瑕(きず)ひとつないとはいかずとも、下界の炭も届かないほど遠く滑らかに見える純白の山肌のような、寒気を呼び起こしさえする皮膚の色。洋燈ばかりが頼りの薄暗い屋内にあって、彼の肌は銀色の輝きを纏っているようにも見えた。

 左目を覆う眼帯や、他にも身体のそこかしこにある様子の傷の異様さだけが彼を少しだけ曇らせている。さりとて、もしこの男が孤児院にいたならば、きっとどんな子供たちよりも比べものにならない高値がついたであろうことは想像に難くない。

 

 にこ、と。彼は愛想よく右目を細めて唇を吊った。恐らくは眼帯の下の左目も同じように弧を描いているのだろう。つんと切れ上がった目尻の印象のキツさが、たおやかな柳眉と案外柔軟な面持ちにすっかり払拭される。

 

「――お怪我ですね」

 

 狗族ならではの鋭い嗅覚で血を嗅ぎわけたゆえの発言かと思ったが、それにしてはすっと尖った鼻は死んだように動かない。「なぜ」と不思議に思うより先に鈍い頭に内心自嘲した。腕から絶えず血を流している奴を見て「御心の加減がよろしくないんですか」などと馬鹿な口を利く者はいない。

 

 狗族の青年は、愛想のよさを保ったままで診察室へのドアを平手で示す。

 

「生憎、先生は席を外しておりまして。治療にあたれるのが研修生の僕しかいなくって、すみませんねぇ」

「ぐぐうーっ!」

 

 と、言葉尻に被せるように、奥から唸るような鼾(いびき)が聞こえてきた。居住スペースへ繋がるらしい扉をじっと見る俺に、青年は顔色を変えずにのんびり繰り返す。

 

「席を外しておりまして」

「……構やしねえよ」

 

 生憎もなにも、場末も場末のうらぶれた田舎町には御覧の通りのありさまで、医者の類いは元よりじゅうぶんに備わっちゃいない。ただいま御睡(おねむ)であらせられる町医者殿は、自分以外にまともな医学の覚えがある者はないと見るや否や手抜きの治療をしたり、足元を見たりするような悪徳医師なのだから、なおさら。案山子だろうが研修医だろうがなんだって、他人様を手当てしてやろうなどというご立派な志を持つ者がいるだけないよりはマシというものである。

 

「ああ、そうだ。失礼、お名前は?」

「ナマエ」

「ナマエさん。コート、脱げますか。お手伝いしたほうがよろしい?」

「構わねえでいいさ。自分で脱げる。そんなに酷い怪我じゃない」

「では、こちらでお預かりだけしましょう。さ、どうぞ。そこへ座って」

 

 指示されるがままにコートを脱いで丸椅子に座り、襤褸(ぼろ)布の袖を捲って早々に腕を差し出す。すると矢庭(やにわ)に「おやまぁ」という声が上がった。

 なにごとかと側に立つ瘦せっぽちをつい見上げたが、その顔は先から少しも変わらずただにこにことしているだけだ。聞き間違いかと視線を外す。

 

「随分とお怪我が多いんですねぇ」

 

 それで彼が口を開いたから、そのときになって俺はようやく驚いた。会話に独特の調子がある男だ。

 

「まあ……、肉体労働だもんで」

「なるほど」

 

 ばさっと空気を孕んだ音がして、渋みのあるマホガニー材のコートハンガーに毛皮がかけられる。俺でも知っていることだが、普通コートハンガーというやつはあの枯れ枝のような突起に上着の襟首を引っ掻けて使うものだ。ハンガーをすっぽりと覆い隠して、シーツのお化けのような出で立ちでゆらゆら揺れるコートを横目に見つつ、「それとも」と思う。俺が今の今まで当然のように了解していた使いかたのほうが間違っていて、あれが中央式の正しい用途なのだろうか。

 俺が座る椅子の真向かい。背凭れをぎっと鳴らして腰を下ろした青年が薬だの包帯だのの用意をしながら、さらっとした口を利く。

 

「病院はお嫌いですか」

 

 大層な学術を修めたお医者見習いには、俺の身体に無数に残る古傷に治療の痕跡があるかどうかまでお見通しなのかもしれない。世間話にしては踏み込むようなことを軽々しく訊ねておきながらも、別にさして答えに関心があるわけでもないようで、細い指先は淀みなく動くし続く言葉にも俺の言い分を待つ間はなかった。

 

「些細な怪我でも甘く見ちゃ問題ですよぉ。下手を打てば死んじゃいますから、なんでも」

「あんたに手間ァかけさせといてなんだが、死にたくなくて生きてるわけじゃねえんだ。構わねえよ。楽に済ませてもらえンならな」

「ふむ、」

 

 言葉を選び損ねたように、僅かながらに薄い口唇が引き結ばれる。右の耳がぴくっと身を震わせて、右目が患部を離れて俺の顔を一瞥する。

 

「というと?」

「別に語るほどの御大層なことはねえよ。楽には死ねそうにないから、とりあえず死んでねえだけで」

「ははあ、なるほど。それはある種の真理かもしれませんねぇ」

「だろ。けど、俺はそうやってあるがままいるだけだのに、生きてりゃ生きてるだけ金はかかるし腹は空く。酷い話だと思わねえかい」

「ええ、まったく」

 

 平坦な返事だ。同意を示しているのでもなければ、俺を馬鹿にしているのでもないのだと不思議とわかる。だが、実にのっぺりとした声だった。抑揚がないわけではないのに。

 

「見習い殿は中央から来なすったんだったな」

「ええ、そうです」

「身に着けてるもんは上等そうだし、毛並みもいい」

「おや、褒めていただけている?」

「おうとも。さぞいい暮らしをされてたんだろうな。それがこんなド田舎まで、ご苦労なこって」

「いやぁ、とんでもない」

 

 彼は少しも笑みの温度を変えることなく応える。

 裏も表もない純然たる本音のつもりだったが、僻みのように聞こえただろうか。捻くれたところはないと思っていても、その実自分自身でさえ覗き込めない深みの底では分不相応にもなにかに焦がれていたのかもしれない。

 

「……グラシー先生はよ、」

 

 名札を見ながら、洒落た響きの名を口にする。耳がぴくぴくと頻りに動くも特になにを言い出すわけでもなかったからそのまま続けた。

 

「あんたにゃ、きちんと納まるべき場所がおありなんだろうな」

 

 ゆったりと、山風の目が瞬く。今度こそ、彼は俺の顔をちゃんと見た。

 こんなくだらないことをべらべら捲し立てるつもりはなかった。それなのに、この男が汚れひとつ知らないように清潔に振る舞うから胸の奥が悪くなって、喉から苦味が込み上げて。なにか言い出さずにはいられなかった。

 だからやはり、僻んでいたのかもしれない。

 

「俺みてえな日陰者(ひかげもん)のゴミクズにゃあ、生き場所も満足になきゃ、死んで入る墓もねえのよ」

 

 言いたくもない言葉が唇を閉ざそうにも次々に歯の隙間から漏れ出しては抉じ開ける。この身形(みなり)の良い血統書付きの犬を前に愚痴を垂れていったいなにになるというのか。

 この男が果たして俺のばつ(・・)の悪さを取り除くことがあるだろうかと冷静に考えれば、そんなはずはあるわけがないと正気のように答えられる。ある日町へやってきたのと同じように、いつか彼はこの由縁のない地を躊躇いなく去っていくはずだ。ここで育った俺でさえ、叶うことならこのくそったれの雪景色を全て捨て去ってしまいたいくらいなのに。

 

「縦(よし)んばそんなもんがあったとしてよ、誰も俺に花なんぞ摘んじゃあくれねえ」

 

 だからなんだよ。これ以上自分を自分で惨めにして、いったいなにになるって言うんだよ。

 吐息は熱く震えたが、目元は乾ききっている。

 身寄りのない俺を温かく庭に迎え入れようなんて間抜けも、俺の死後にわざわざ金を土塊(つちくれ)に還して共同墓地に入れてやろうなんて気を違えた奴もいるはずがない。

 俺が死んだら、きっとゴミのように捨てられる。それでその後は、誰も思い出しもしない。

 墓ひとつ、花ひとつさえもないならば。誰ひとりとして悼まない死者ならば。

 それで本当に生きたと言えるだろうか。

 それで本当に――――死んだと言えるのだろうか。

 土の下から力任せに引き摺り出される腐りかけの頭と目を合わせて、暴挙を止めることもできずに息を潜めながらじっと眺めていた日。あの日からきっと俺も土の中にいて、誰にも埋めてもらえない頭を仰向けていた。

 そんなの、生きてもいない。死んでもいない。

 

 なにでもないというのなら、俺はきっとなんにもない。

 

「なら、――――」

 

 傷から煤や石の屑を取り除く手を休めることなく、尖った犬歯を携えた赤い口がぬらりと開く。

 

「僕が迎えに行きましょうか」

 

 思考の渦を割り裂いて差し向けられた言葉の異質さとは裏腹に、彼の口ぶりは妙にさっぱりとした響きでいた。彼の声音には歪んだ倒錯を孕んだ愛著(あいじゃく)も慈悲からなる哀れみもなかった。

 ほとんど世間話の一端だった。

 いらぬから捨てると放ったものを、「じゃ、僕がもらっときましょうか」とでも気軽に言うような。

 それなのに、俺の心中には妙な高揚感が沸き上がった。

 

「首都(コンツォルト)なら献体という手もおすすめしたんですがねぇ。あれは中々よろしい具合に持て成してもらえますよ。医学の発展に身を投じた尊いお亡骸ですから。一日のうち、わざわざ大勢で顔を突き合わせて黙祷を捧げる時間が設けられているほどです」

 

 清い血が流れているのだろう血管の透けた手で薬を塗り込める間にも、グラシーはやはり世間話の言葉つきで続ける。

 

「でもホラ、この町は学習とか研究とかっていう気風じゃないと言いますか……実践向きでしょう」

 

 包帯がくるくると腕に巻きつけられていく。真白く冷めた厚意にも成りきらないなにかが俺の腕を覆っていく。

 

「だから、まあ。しがない研修生の身でもよろしければ、僕がお迎えにあがりますよ」

 

 無機の微笑みにようやく気付く。

 ――この男もまた、土中にいるのだと。そしてそれは恐らくいる場所も選べない俺とは違い、自ら望んで。

 価値ある命を生きながらにして、死を呼ぶ風を内包した瞳でもって、静かに、ただ静かに、ひたむきに昏闇を見据えているのだろう。

 

「はい、おしまいです。お疲れさまでした」

 

 平坦な声。澄み透った氷のような、美しい笑み。ゆるりと傾げられた白く細い喉から放たれることば。

 

 この男は本当に、いずれ訪れる空虚な死(おわり)に花を手向けてくれるとでも言うのだろうか。

 

「では、お大事に――――ナマエさん」

 

 全身に響くように、激しく波打つ自らの鼓動を聞いていた。

 俺は暫く、立ち上がれもしなかった。

 

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こちらはSkebにてたわちゃんさん(@yamamori_sugar)にお願いした自創作キャラ夢小説です。Skebのリンクはこちら

 

素適な小説と掲載許可をいただきありがとうございました!