ひょんなことから魔界ーラジエントへと降り立ったエリシャは、自警団で暮らし始める
前話『翠催す華作り』の続編になります。
――――――
しゃきっと肌を引き締める爽やかな朝の寒気。冴えた空気は、睡魔が取り憑く泥濘のような熱の残る一身に心地好い。
窓硝子を淡く透るのは、仄暗い灰青色の空がようやく迎え始めた白らかな旭光だ。線状の光は、まるで道具を使って引いたみたいに真っ直ぐ食堂に飛び込んできては、籠める柔らかな薄暗がりをはらはらと散らしていく。
その朝日を帯びて、ふわふわに立った白い毛の一本一本をきらきらと輝かせる人がいる。
彼はふと思い立ったように顔を上げてこちらを見た。橙色の瞳から放たれる視線が、私にちらと掠められる。
「ところで、エリシャ。今日はお前も仕事があるらしいな」
恒例の早朝の走り込みでたっぷり掻いた汗をタオルで拭うマルちゃんが、そんなことを言う。なんだかんだ、こんななんでもないような世間話を彼から振ってくれるのは珍しいことだ。私は嬉しくなって、ついにこにこと頷いた。
「あ、うん、そうなの。マルちゃん、覚えててくれてたのね」
「覚えて……?」
対するマルちゃんは、途端不機嫌そうになる。真っ白なタオルの隙間から覗く目をぎゅっと細めて、こちらをじろりと見た。
彼の瞳は優しく甘いオレンジシャーベットみたいにまろやかな色合いをしているから、睨みを利かせてもあまり恐ろしく見えないところがいいなと思う。こんな印象を懐くのは、そもそもこれまでに彼から、私を本気で脅しにかかろうという気が感じられたことがないところも大きいだろう。
彼は言葉つきやその振る舞いこそ一見厳しいようでいて、誰かに対して理不尽に拳を振り上げるようなことはただの一度としてなかった。誤解されがちだけれども、優しい子なのだ。
「覚えていたもなにも、訊きもしないのにお前が人の横で勝手にべらべらとうるさいからだろ」
「ああ、そういえば、そうね。確かに……」
記憶を振り返る私に、なおも険のある眼差しが突き刺さる。
言われてもみればその通りで、私には彼の姿を見るなりついつい寄っていって、なにかとお喋りに付き合わせてしまう悪癖がある。
これは彼のすぱっとした小気味いい語り口と、本当に私が迷惑なら迷わず背を向けてくれるだろう為人に対しての甘えがあるためだった。今だって、マルちゃんはぶつくさとぼやきながらも私のお喋りに根気よく付き合ってくれている。
「うん、でも、〝だからこそ〟なんだわ」
「なに?」
マルちゃんが問いながら片眉を跳ね上げる。
「私が勝手に話したことだったのに、あなたはしっかり覚えててくれてたから。だから、やっぱり嬉しいなって。ありがとう、マルちゃん」
いよいよ以てマルちゃんはなんだか忌々しげだった。狗族特有のふにふにと厚く柔らかそうに立ち上がった耳がぴるぴる細かく動いて、ぷいと反らされた鼻の頭がむずりむずりと蠢いている。ちょっぴり居心地が悪そうでもあった。
「たかだか凡人風情の脆弱な記憶力と同程度に見てもらっては困る。僕の明晰な頭脳は常に冴え渡っているんだ。お前のせいぜい胡桃大の脳味噌とはわけが違う」
「そうよね、すごいわ」
「……ふん」
それでも暫くするうちに段々と気分のよさが勝ってきたのか、彼は綺麗に通った鼻筋を誇らしげに上向けた。ふっさりとした尾は床を勢いよく払うように左右に振られ、上を向く膨らんだ小鼻からはむふんと力強い息が漏れる。
その上向いたままの顔で、マルちゃんは器用に私へ視線を垂れた。
「それにしても……お前もこれでようやくタダ飯食らいの身から本格的に卒業するのだと思うと、感慨深いものがあるな。ここまでお前を見捨てず鍛えてやった僕に感謝しろよ」
「うん、本当にありがとう、マルちゃん。私が少しでも皆さんのお役に立てるようになったのは、あなたのおかげね」
「よくわかっているじゃないか。これからも僕の背中を見て励めよ。絶えず感謝の念を忘れず、末代まで僕のいる方角を向いて拝むといい」
「うん、きっとそうするね」
「お前は鈍間な奴だが、そうやってものわかりのいいところだけは評価できるな」
マルちゃんはなにごとかひとこと言うたびに一層胸を張っていって、今やひと押しで引っくり返っていきそうなぐらいだ。こんな彼を見るたびいつも思うけれど、それなのに本当にそのまま倒れていってしまった試しのないところが彼の驚異的なバランス感覚の顕れなのだろう。これも、彼が日々自身に課してきた厳しい鍛練の成果に違いなかった。
マルちゃんはふらつきもせず、その傾いた体勢のままで使い終わったタオルをこちらへ差し出してくる。私も、いつも通り受け取ろうと手を伸ばす。
だけれど、どうしてだかいつまで経っても広げた手のひらにタオルが落ちてこない。
どころか、彼は反り返りすぎて逆に下がり気味だった上体をむくっと起こすと、周囲に素早く視線を巡らせた。ふわふわだった白い毛は、なんのためにか針のように逆立っている。
「……マルちゃん?」
「……いや、」
頻りに辺りをきょろきょろと見回すマルちゃんはなにかを探しているようだった。二度三度ばかり首を左右に振って、結局なにをするでもなく改めて私に向き直る。目当てのものが見つからなかったようだった。だというのに然したる落胆の色も見せない彼は、むしろ探しものがこの場にないことを安堵しているかのようにも見えた。
思わず気になって、探しものの正体も知らないくせに私も彼の身体越しに視線を右から左へきょろりと流してみる。
だけど、やっぱりこれといったものはなにも見つからない。ものが増えていたり逆に減っていたりということも特にない、はず。私の目からは、いつも通りの食堂でしかない。
マルちゃんの背後からアンドラスさんがゆっくりと近づいてきているのは見えたけれど、ただそれだけだった。
「――よし、」
晴れ晴れとした面持ちで、マルちゃんはとうとうタオルを手放した。私の手の中にしっとりと濡れた微温いタオルが落ちてくる。
それとほとんど同時だった。彼の頭の後ろから、大きく広げられた手がぬうっと伸びてきた。
「なにが〝よし〟だ、馬鹿野郎」
「ぐあああッ!」
マルちゃんの頭に大きく長い指がみしみしと音を立ててめり込んでいく。この手の主はもちろんアンドラスさんだ。
マルちゃんは苦悶の表情で、頭を両手で抱えるようにして押さえている。アンドラスさんの手をどうにか引き剥がそうとしているようだけれど、うまくいかないらしい。じたばたとしていた。
「ほんっとに学習しねぇ奴だな。――エリシャ! お前もだぞ」
「は、はい、すみません」
ぴしゃっと叱られて、私はつい肩を竦ませた。アンドラスさんの声は通りの端から端まで届くくらいよく通るから、こんなふうに怒られると「本当に悪いことをしてしまったのだわ」と反省しかできなくなる。
「き、貴様っ、アンドラス!」
その一方でマルちゃんは勇猛果敢だ。まったくと言っていいほどめげずに、なおも藻掻きながらアンドラスさんに食って掛かっている。
「背後を取るとは卑怯な……! お前には矜持のひと欠片もないのか! 恥を知れ、恥を!!」
「恥を知るのはお前のほうだろうが。いい加減、タオルぐらい自分で片づけろ」
言いながら、アンドラスさんはようやくマルちゃんを解放した。おでこに指の痕を赤くてんてんてんと残したマルちゃんは、それでもアンドラスさんを鋭く睨みつけてぷりぷりと怒っている。
しかし、アンドラスさんにもう一度大きくパーの形になった手を見せられると、すぐにくるりと背を向けた。
「何度も言うがな、アンドラス! これで勝ったなどと間違っても思うなよ! この場は、僕が譲ってやったんだ! 覚えておけ!」
不機嫌一辺倒の足音をけたたましく鳴らしながら、怒鳴り声が洗濯もの置き場のほうへ遠ざかっていく。やがて彼の姿は見えなくなって、私たちふたりだけが取り残された。
急に場がしん……と静まり返る。私もアンドラスさんも口にするべき言葉を見つけられていない様子だった。言葉もなく、お互いにお互いをまじまじと見合っている。
わざわざ目を逸らす必要もないからなんとなく向き合ったままでいるけれど、そうやってどうにかもっともらしい理由付けを考えていること自体が、そもそもおかしな話だった。
「……、あ~……」
彼も同じように感じていたのかもしれない。アンドラスさんは、どことなく居た堪れないように視線をうろりと動かした。
「今日はお前……家事代行の仕事が入ってたんだよな」
「あ……、はい」
自警団のみんなとは違って力仕事という面ではてんで役立たずの私だが、家事についてはある程度腕に覚えがある。アンドラスさんはそれを特技として見出してくれ、最近の私は自警団を通して家事の代行を請け負うことが増えていた。
今回依頼をくれたのは、ナザリーさんという第一地区に住む女性だ。小ざっぱりとしてとても気持ちのいい性格の彼女は、前々から自警団によくご飯を食べにきてくれるお客さんのひとりでもあった。加えて、元は華族の皆さんや私とも同じ地上の出身ということで、個人的にも仲良くしてくれている。
「朝の仕込みのお手伝いが終わって少ししたら、すぐにでもナザリーさんのところへ伺うつもりです。……それで、問題ないでしょうか?」
「おう。まあ、これが初めてのことでもないし、依頼人つっても日頃から付き合いのある相手だからな。仕事はきちんとやってもらわなきゃ困るが、それはそれとしてあんまり気負わずやれよ」
その言葉で知らず知らずのうち身体に入っていた力がぷうと抜ける。
お仕事なんだもの、適度な緊張はかえって気を引き締めてくれるだろうけども、それで変に強張って失態を演じてしまっては本末転倒だ。
彼の言う通り。いつものように、私は私にできることをきちんとこなしていけばいいだけだわ。
アンドラスさんの激励に、私はこくりと頷いた。
「はい、しっかりお勤めしてまいります」
「おう。……おう」
「……、えっと……?」
お互い、ある程度のひと区切りがついた感じだった。それで会話を切り上げて、とりあえず今は各々の準備に戻っていくような雰囲気だったのに、アンドラスさんの足は一歩たりとも動かない。まだ私の前でそわそわとしていて、なにやら腕を上げ下げしている。
そのうちに落ち着きどころを見つけたように、腕は中空でぴたりと止まる。そのまま私の肩の上にぽんと降りてきた。
肩口の布地越し、アンドラスさんの手の熱が私の肌にじゅわっと染みて、少しどきりとする。
「……それじゃあ、今日も一日よろしく頼む」
「……はいっ、こちらこそ、よろしくお願いします」
私を見下ろすアンドラスさんの表情は岩のように厳めしい。それでも肩から伝わる温もりが優しいから、申し訳なさよりも嬉しさが勝ってしまう。
もういくらか前のことだ。
「我儘を言っていい」というアンドラスさんの言葉に甘えきった私は「もっと触ってほしい」なんて妙なことを口走ってしまい、彼を困らせてしまったことがあった。
当時はなんだか変な空気が漂う瞬間もあったけれど、アンドラスさんは律儀な人だから、それからもこうして折に触れてスキンシップの機会を設けてくれていた。
置かれた温かな手の上に自分の両手をそうっと重ねる。驚かせてしまったのかアンドラスさんの指がびくっと跳ねて、肩にきゅっと食い込んでくる。
そのちょっと痛いくらいの手の力に、かえって安心感があった。
「あたたかい、」
「そ、そうか」
「……ふふ、アンドラスさんの手、いつも太陽みたいです。ぽかぽかしてて……」
「そ、そうか」
「自警団の看板に泥を塗らないように、私、しっかり頑張ってきますね」
「そ、そうか」
「――おい、」
「わあっ」
不意に、すぐ真横から人の気配がして剰え声まで上がる。
私とアンドラスさんは揃って飛び上がって、一斉に横を見た。
「廊下を塞ぐな、破廉恥共」
「だっ……誰が破廉恥だコラ!」
「ご、ごめんね、マルちゃん、お邪魔だったよね」
どうやらタオルを片づけて疾うに戻ってきていたらしい。いかにも手持無沙汰そうに腕を組んだマルちゃんが、憮然とした面持ちで立っていた。
*
――特別自由自治区ラジエントが主都、セゼンリース。その市街を十字に通る大通りは、街を第一地区から第四地区に綺麗に別っている。
その四つの区画のうち、街の北西に位置するはアンフェ通りとリーズ通りに面した第一地区。役所にもほど近いそこには、先細りの三角錐の瓦屋根が印象的な民家がある。
言い伝えに聞く小人が被る帽子のような、なんとも愛らしい見掛けをした家。それこそ、今回の依頼人――ナザリーさんの住む家だった。
塀に迫られるようにしてある華奢な鉄の門扉を押し開いて見えるのは、家までくねくねと蛇行して続く石畳。その左右には野菜の生る小さな畑と、玉砂利を敷き詰めた庭がある。
この、客人を家にまで導いてくれる石畳を爪先で「こつこつっ」と鳴らすのが、ナザリーさんの家にお呼ばれしたときの私の密かな楽しみだ。
石畳を存分に堪能して、ようやく家の前まで辿り着く。重たい手提げ袋を肩に掛け直して呼び鈴を鳴らすと、待ち構えていたかのようにすぐ扉が開いた。
「エリシャ! いらっしゃい!」
「おはようございます、ナザリーさん」
中から顔を覗かせたのは、もちろんナザリーさんだ。
さっぱりと爽やかな笑顔が、日の光をいっぱいに浴びる朝露にも負けないほどに煌めいて眩しい。
「今日もまた、随分早く来てくれたんだね」
「あ……すみません、早すぎましたか?」
「いや? 話し相手がほしくて退屈してたとこ」
ナザリーさんは明るく言いながら、長い睫毛を湛えた目でぱちっとウィンクをする。それが胸を打つくらい魅力的だから、私の頬はつい「ぽっ」と熱くなった。
「さ、上がって! お茶のひとつでも出してやるから、仕事前にちょっとひと息つきなよ」
「は、はい、それじゃあ、お言葉に甘えて……」
ナザリーさんに背を押されるがまま、私は席についた。そこでようやく気づいたけれど、肩にしっかり掛けていたはずの手提げ袋がすでにない。
慌てて振り返ると、私の手提げを持ったナザリーさんが台所へ向かう後ろ姿が見えた。私の周りの人たちはこうしてあまりにも自然に親切をはたらいてくれるものだから、私はいつもお礼を言うのが遅れてしまう。
せめて今からでもお礼をと思って席を立ち上がる。彼女の背中を追いかけようとしたところで、ナザリーさんが壁の向こうから照れ臭そうにちらりと身を覗かせた。
「ごめん。やっぱり、あんたが淹れてくんない? あたしが淹れるより、あんたの淹れたお茶のほうが美味しいんだもん」
「……うふふ。ええ、ぜひ、任せてくださいっ」
――台所を借りてお湯を沸かし、ナザリーさんが出してくれていた茶葉でふたりぶんのお茶を淹れる。淹れたお茶を盆に乗せてまたテーブルへ戻ると、すでに席に着いていたナザリーさんが縫いかけのレースリボンを置いて手を振ってくれた。
「――にしても、ちょっと安心しちゃったよな」
「……と、言うのは……」
ほかほかと丸い湯気を立てるティーカップにさっそくとばかりに口をつけながら、ナザリーさんがけらけら笑って言う。
「いやさ、ほら。自分から頼んどいてなんだけど、なんかの手違いでレラージェが来やしないかって、昨日からひやひやしてたんだ。あたしが今日お願いしたいのって、メインは料理関係のことだったからさ」
「そ、そうですか……」
「あの子って基本なんでもできる子だけど、料理だけは――ねえ?」
「う、ううん……」
否定も肯定もできずについ苦笑って、間を誤魔化すために椅子に座る。
レラちゃんはなんでもそつなくこなす女の子なのに、どうしてだかお料理関係のことだけは持ち前の器用さが奮わない。これは私たちの間では広く知れた事実だった。
本人もそれなりに気にしているようだから、私もどうにか少しでも改善できないかと彼女と一緒に台所に立ったことがある。だけれど結果は散々で、その後は暫くの間、どうしてだか私までお料理ができなくなるという珍事に陥ってしまったのだった。
そんなことがあって以降、私とレラちゃんが一緒に台所に立つことはできなくなってしまった。アンドラスさんに厳しく禁じられたためだ。
「マ、そんなもんだからさ、あんたみたいに気の利く家事上手が自警団に来てくれて、あたしらみたいなのはほんとに助かってんだよ。こういう仕事が、うんと頼みやすくなったんだもん」
ティーカップをソーサーにそっと置いたナザリーさんが、またリボンを手繰って針を取る。私はというと、未だにお茶に手が伸ばせないままで指先をもじもじと弄っている。
昔からそうだ。熱さにはどちらかといえば強いほうだったのに、熱すぎる食べものはしっかり冷ましてからでないと一向に口がつけられない。
「家事の腕って言や、そりゃ団長こそ天下一品だけどさ、あの人はあの人で色々と忙しい人だし、なによりあたしが結婚を控えた身で余所の男を家に入れるのは、なんだか気が引けちゃってね」
「あ……、そういえばご結婚の日取り、決まったんですよね。おめでとうございます」
「やめてよ。改まってそんなこと言われると、なんか照れちゃうだろ」
私の言葉に、ナザリーさんがぱっちりした目元をくしゃくしゃにして無邪気に笑う。
彼女には魔 界に来てからのお付き合いである恋人がいて、結婚まで秒読みといった期間がもう随分と長く続いていたのだった。それがつい先日ようやく正式なプロポーズを受けたということで、彼女やその周囲は近頃なにかと慌ただしい。
ナザリーさんがここ最近頻繁に私に依頼を出してくれるのも、結婚の準備で家のことに手が回らないほど忙しくしているためだった。
今彼女が取り掛かっている縫いものも、恐らくはその準備の一環なのだろう。訊ねるとナザリーさんは首肯して、私にもよく見えるようにとリボンをひらりと広げてくれた。
純白のレースリボンには、可愛らしい草花や木の実をモチーフとした図案が繊細に縫い込まれている。見たことのない植物だと言えば、そのどれもが彼女の故郷でのみ見られた植生によるものだとナザリーさんは言った。図案も、彼女の一族に古くから伝わってきたものなのだと。
ふと視線を彼女の肩越しに投げかければ、部屋の片隅には霞が折り重なってできたような美しいチュールがハンガーに掛かってふんわりと佇んでいるのが見える。あのチュールの裾にレースリボンを縫いつけて、ウェディングヴェールにするのだろう。
「どんなもんよ。まだまだ途中だけど、中々の出来でしょ」
「はい、すごく綺麗です」
「はは、あンがと。ぶきっちょだけど、お家柄かな、この手の作業だけは昔っから得意でね」
その言に違わずナザリーさんは私と言葉を交わす一方で、手に持つ針を実に器用にちくちくと動かしている。その手捌きは、針がまるで彼女のもう一本の指であるかのように見えるほどだ。
「あたしンとこにはさ、花嫁が自分で拵えたヴェールを、親しい人たちからひと針ずつ刺してもらって完成させるっていう古くからの為来りがあったの。そうすれば、嫁いでいった花嫁はずっと幸せに暮らせるって」
彼女は寂しげに笑った。詳しく立ち入って聞いたことはないけれど、恐らくは彼女も並々ならぬ理由があってこの地にいるのだろう。
「生まれ故郷からは随分離れてこんなとこまで来ちゃったけどさ、だからこそあたしも、このヴェールは最後にはみんなの手を貸してもらって完成させたいんだ」
「ナザリーさん……」
きっとその美しい為来りには、古くから変わらない絆や愛に基づいた祈りが込められているのだろう。彼女によって繰り出される流麗な針運びに、長きに渡って人々の手により紡がれてきた優しい歴史を垣間見たような気がして、胸に温かいものがじんわりと込み上げる。
「……素敵な伝統ですね。私、応援してます」
うっとりと呟いた私に、ナザリーさんはぴたりと指を止めてこちらを見る。少しだけむすっとした顔で、目だけで私を湿っぽくじとりとねめつけた。
「ちょっと、なに他人事みたいな顔してんのさ。当然、あんたにもひと針刺してもらうんだからね。わかってんの?」
「……えっ。わ、私がですか?」
ティーカップを取ろうとした手が滑って、ソーサーが高くがちゃんと鳴る。驚き目を見張った私に、ナザリーさんはますます不満顔だ。
「アによ。嫌なわけ?」
「い、いいえ! そんな! こ……光栄です……!」
「……ふふん、そりゃそうでしょ。花嫁のヴェールってのは、誰にでも針を入れられるもんじゃないんだからね」
本当に、思いがけない栄誉と言うより外にないことだった。ナザリーさんに大切な友人なのだと言外に伝えてもらったことも、こんなに綺麗な絆の輪に私まで手を引いてもらえることも、なにもかもが嬉しくて眦が情けなく垂れていく。
だらしない顔をしているだろうことが恥ずかしくて、私は咄嗟に俯いた。それでやっと目に入ってきたテーブルの上の自身の手は落ち着きなくぱたぱたしている。丸きり子供みたいで、これもまた恥ずかしい。
とにかくこの手だけでも隠してしまおうと膝の上にしまい込んだところで、視界にナザリーさんの腕がぐわっと飛び込んできた。
「――あーあ! あんたを嫁にする男が憎らしいったら!」
「きゃっ、……!」
下げていた顔を持ち上げるように、ナザリーさんが私の鼻をぎゅむむっと抓みあげる。
「この可愛い可愛い真っ赤っかな鼻っ面が、そいつだけのものになるってンだからね。妬ましいったらありゃしないよ」
「な、ナザリーさん……」
「あんたの結婚式にはあたしも呼びなよ。いーい?」
「い、今のところ、特に予定はありませんが……」
「ふうん? そう?」
結婚どころか恋人だっていない私にそんな予定があるわけもない。それなのにナザリーさんはちょっぴり納得のいかない様子で首を捻っている。
かと思えば窓の外、いよいよ以て青さを増し始めた空を見やって、はっとした顔をした。ナザリーさんは勢いよく席を立ちあがると、縫いかけのレースリボンをキャビネットの中に大事にしまう。
「のんびりしすぎたな。そろそろあたしも自分の仕事に行かないと。じゃ、家のことは頼んだよ。鍵は、いつもの場所に置いといてくれればいいからさ」
「はい、わかりました」
「あ――、あとあれ。この間、作っておいてくれてた煮物、また作ってよ。あれ、すっごく美味しかった。誰のレシピ? 団長? あんた?」
「大元は私のレシピで、そこにアンドラスさんが手を加えてくださったんです。お口に合ったようでよかった。前回とっても喜んでくれていたみたいですから、今日もちゃんと材料、持ってきてますよ」
「さっすが! あんたってば、ほんと気が利くんだから」
あれこれ言いながら慌ただしく出勤の準備を整える彼女の声に応えつつ、私も一緒になって後を追う。彼女のどたばた具合に釣られて私まで忙しい気持ちになっていたせいか、玄関まで辿り着く頃には大した移動距離でもないのに息が上がってしまっていた。
「よしっ、準備完了! 頼みたいことも頼み終えた! それじゃ、行ってくるね!」
「は、はい。お仕事、頑張ってきてくださいね、ナザリーさん」
戸口に立って見送る私に、ナザリーさんは面白そうににやにやとする。弓形になった目が悪戯っぽくきらりと光る。
「はは……、あんたに結婚の予定がないって言うなら、あたしの嫁に来てもらっちゃおうかな」
「ナザリーさんには、もうじき素敵な旦那様ができるじゃありませんか」
「そーそ。旦那はもう間に合ってるから、あんたには嫁に来てもらうの」
「もう……お仕事、遅れちゃいますよ」
冗談を残して軽快に走り去っていった彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送って、私はまた家の中へと戻る。
まずは溜め込んでしまっていたと聞いていた洗濯ものから片づけたい。それが済んだら家の掃除をして、日保ちの利く料理を何品か作る。そのあとは台所を私用に使ってもいいと言われているから、自分の昼食を簡単に済ませよう。そうしたらまた台所周りの掃除をして、依頼は完了だ。
先ほど台所を見せてもらった限りでは、事前にある程度の食材や調味料の用意をナザリーさん自身でもしてくれていたようだった。献立に困ることはないだろう。こちらでもじゅうぶんに賄える程度の食材は持ち込むと言ってあったのに、気を遣ってもらってありがたい限りだ。
笑みを収める。深く息を吐いて、また大きく吸う。自分の頬を軽くぱちんっと叩いて気合いを入れると、私は満を持して腕捲りをした。
ここからは、私も仕事の時間だ。
*
お昼と夕方の間くらいの、温かで穏やかな心地の好い頃合い。見上げればまだ空は青々としていて、役所へ真っ直ぐに続く道だけあってアンフェ通りも賑々しい活力に満ちている。手提げ袋はすっかり軽くなって、足取りも軽い。
ナザリーさんの家での仕事が終わった私は、自警団への帰り道を辿っているところだった。
曲がり角に差し掛かり、もうすぐ自警団の影も見えてこようかというそんな折、人通りの流れが自分とは逆を往っていることに気づいたのは偶然だ。
不思議に思って足を止めると、周囲の喧騒も明るく賑々しいというよりはどこか不穏めいて騒々しい。
不安に駆られて澄ました耳を、誰かの声が劈いた。
「――――火事だ! 火事だぞ!」
心臓が、まるで耳許で鼓動しているかのようにどくんと鳴る。地面に影が縫い留められてしまったように動けない私のすぐ傍で、声はなおも続ける。
「どこが燃えてる!?」
「ナザリーの家だ! 急ぐぞ!」
事態を正しく把握したその瞬間、全身の血の気が一気に失せた。指先や足の爪先から身体中の血液が全て抜けていってしまったような、悍ましい感覚だった。
ナザリーさんの家が? どうして?
頭の中を、それだけがぐるぐると回る。
台所を最後に使ったのは私だ。間違いがあってはいけないと、火の始末は何度だって確認した。
見落としがあったのか。それとも、それとももっとなにか……――。
――エリシャの中には、火の魔力があるんだな。
契機というほどのことはなにもなかった。ただ途端に頭の中心を一本の糸がすっと通っていくような感覚がして、そう遠くもない過去がさまざまと目蓋の裏に蘇った。
そして今、あっけらかんとして放たれた言葉を、強烈に思い出していた。
――パイモンが、そんな感じがするって。もしかしたらお前も、練習すればちょっとした魔法ぐらいは使えるようになるかもしれないぞ。
いったいどんな話からそんな話題が生まれたのかも覚えていない。それこそ燃える炎のような赤い瞳をした少年があのときと同じく、プリンをもぐもぐと頬張りながら私の記憶の中で何度も囁きかけてくる。
鼓動が早くなる。息が浅くなる。
火の不始末でなければ。
そうでもなければ。
――――私が?
見下ろした両手は白く青ざめている。視界にちらつく、嫌になるほど見慣れたはずの赤黒い髪に今さら脳天を揺らされたような衝撃を受けて、踏鞴を踏む。
赤黒い髪。醜い髪。かつていた、私と同じ髪色を持った人。誰に言われた言葉かもわからなくなるくらい飽きるほど聞いた、実の父親への恨みと揶揄いの文句が私の胸を苦しいほどぎゅうぎゅうに締め上げる。
――妻を捨てた。
――子を捨てた。
――お前の父親は炎の怪物だ。
――実の両親さえも、焼き殺したのだ。
あれが、ただの放言でないならば?
彼の中にあった呪われた炎の魔力が、私にもそっくりそのまま受け継がれていたのなら――?
記憶が、過去の情景が、頭の中で入り乱れている。今も過去も感情も思い出も、なにもかもが綯交ぜになって私の思考をぐちゃぐちゃに埋めていく。
まだ地上にいたときのことだ。
隠れ住んでいた森のすぐ傍にあった町で火の手が上がったことがあった。私はそのとき赤々と染まった空が恐ろしくて、火が燃え移りはしないかとこっそり様子を見に行ったのだ。
不幸中の幸いとでも言うのか、燃えていたのは家屋の一軒のみだった。それも町に着く頃にはすでに打ち壊されてほとんど消火も終わっていたから、私も誰かに見つからないうちにそそくさと家に帰り着いたのを覚えている。
あの繊細なヴェールが、崩れてくる瓦礫の中を耐えきれるだろうか。
いや、それどころか、火に巻かれてすっかり燃え尽きてしまうかもしれない。
――あたしも、このヴェールは最後にはみんなの手を貸してもらって完成させたいんだ。
――当然、あんたにもひと針刺してもらうんだからね。わかってんの?
頬を桜色に染めた、幸せそうにはにかんだ笑顔が脳裏を過る。
ナザリーさんが一生懸命に縫い進めていたレース。
私にも針を入れさせてくれると言ってくれた、大切なもの。
もう、いても立ってもいられなかった。来た道を引き返すべく、私は身を翻した。
*
走って。
走って。
走って。
なおも直走る。
荒く浅く呼吸を繰り返す喉が痛い。肺が引き千切れそうだ。酸素が足りなくて耳鳴りがする。足首はなんだか変なふうに痛むし、脚にスカートが纏わりついて走りにくい。
唾を無理に飲み込んで、それでも走った。
ようやくナザリーさんの家に辿り着くと、黒い煙と赤い炎が意地の悪い蛇のように絡み合って家屋に巻きついているのが見えた。木やものの焦げる苦い臭いが鼻をつんとついて痛い。汚れた煙に涙まで浮かぶ。
家の前では、不用意に人が近づかないようにしているのだろう、漁師のおじさまが声を張り上げている。自警団にもよく来てくれる大工のおじさまのお友達のひとりで、彼共々臨時の自警団員でもあった。
彼の目についてしまっては、一歩たりとも家に近づくことは許されないだろう。
だから、よくもこうまで俊敏に動けたものだと自分でも思う。
私は彼の目を盗んで傍にあった桶を掠め取ると、ひと思いに水を被った。そうして息も整わないまま、燃える家へと走り出していく。
焦げて萎れた畑の野菜も、煤けて黒っぽくなった玉砂利も、焼けてぼろぼろになった家も。その全てが悲しい。
こんなふうにされていいものじゃない。こんな簡単に喪われてしまっていいものではなかったはずなのに。
ならばせめて、ナザリーさんの想いひとつだけでも守り抜かなくてはいけない。
背後から怒鳴り声が追いかけてきたけれど、振り返る余裕はなかった。
*
家に入るなり、火片混じりの黒い煙がばっと私に襲いかかる。咄嗟に袖で鼻と口を押さえて姿勢を低くする。
いくら防止に努めていても、火事はない話ではない。仮にも自警団に身を置く一員としてこういった緊急時における講習だけは受けていた私には、火事の際にはその煙を吸い込んではいけないという予備知識ぐらいはあった。
痛み霞む目を懸命に見開いて、一歩ずつ着実に家の中を往く。
焼け崩れて様相がすっかり変わり果ててしまっていても、何度も入ったことのある家だ。そう広いわけでもない。慎重に歩を進めるうち、なんとか目当ての場所まで辿り着くことができた。
幸いチュールは傷ひとつなく無事で、キャビネットにもまだ火は燃え移っていないようだった。
ほっと息を吐きかけて、ごうごうと鳴る炎の音にすぐ表情を引き締める。
ハンガーからチュールを、キャビネットの引き出しからレースリボンを取り出して、火の粉がかからないようにそれぞれ折り畳んで懐にしっかりしまい込む。
すぐにでも燃え盛る家から脱出しようとして、目の前に埃のように細かい木片がぱらぱらと降り注いでいることに気がついた。透かさず、頭の上に暗い影がかかる。
はっとして顎を上向けると、轟音と共に化粧柱が傾いているのが見えた。火の手が広がると共に支えを失ってしまったのだ。
慌てて逃げようとしたけれど、手遅れだった。柱は何度か壁にぶつかってから、私の足を思いきり挟んで地に伏した。
――がうんっ。
重たいような、鈍いような、なんとも言い難い気持ちの悪い音が全身に響く。
私の身体が鐘だとすれば、大きな槌で力いっぱいに振り抜かれたみたいだった。それぐらいの衝撃が、頭の天辺から爪先までを満遍なく駆け回った。
「い、痛……」
ほとんど反射的に挟まれた足に手をやる。ずくんっと貫かれるような痛みに、すぐに指が引っ込む。
脂汗が出るほど痛いけれど、折れてはいない気がする。散々壁にぶつかって勢いが殺されてくれていたのがよかったのだろう。
だけど、動けない。
足が抜けない。
ぐいぐいと柱を押してみても、うんともすんとも言わない。足が余計に圧迫されて痛むばかりだ。
「ど、どうしよう……」
吐き出した言葉はほとんど形を成さないほど震えていた。
ナザリーさんのヴェールが燃えてしまう。それに、このままじゃ私も……。
熱さか、焦りか、痛みか。蟀谷からじわりと滲み出た汗が顎を伝って襟首に落ちる。
自分でも呆れ返るくらいに無謀なことをした。漁師のおじさまへの迷惑も顧みずに危険を冒したのに、結局なにもできないまま、こんなことになるだなんて。
身動きひとつ取れず、成す術なく天井を見上げる。
もくもくと上がる黒煙はすっかり頭上を埋めている。私の元までこの煙が下りてくるのも、時間の問題だった。
――死んでしまうのかしら。
そう思うとさっきまでの焦りがすうっと引いて、頭が冷えた。
極限まで追いつめられると人はかえって冷静になってしまうものなのか。私は少しおかしなくらいに落ち着いてしまっていた。
死にたいと思ったことも、自分自身で命を絶とうと思ったこともない。
ただ、私がこのまま死んでしまっても誰にも悼まれず、誰にも気づかれないのだろうと思ったことは何度もある。
――だけど、今は違う。
自警団のみんなの顔が次々浮かんでは消えていく。ここへ来てから優しくしてくれた人たち、私を友達だと言ってくれた人たちの顔がまた浮かんで、やっぱり消える。
優しい人たちだから、悲しませてしまうかもしれない。彼らの表情が曇るところを想像するだけで気持ちが重たく塞ぐ。
「――でも、」
小さく呟く。
だけれど、素敵な人たちだからこそ、きっと大丈夫でいてくれると本心から思う。
今、彼らの周りにいてくれる人々が。私のようにまた新しく彼らと出会う人々が、心の傷を癒してくれるはずだから。
足に乗る柱を、じわじわと炎がのぼり始める。足首がじくじくと痛い。それでも今気絶してしまうほどの苦しみを感じずにいられるのは、あまりの事態に痛覚が麻痺してしまっているのか、はたまた私の中にあるという魔力がそうさせているのか、その両方なのか。
もしかしたら煙に巻かれるよりも早く、私はこの火に燃やされて死んでしまうのかもしれない。
自身の胸元をそっと撫ぜると信じられないほど鼓動が凪いでいるのがわかる。心臓のすぐ傍にはナザリーさんのヴェールがまだしっかりとある。
結局出火の原因もわからない。この惨事が、本当に私が引き起こしてしまったものなのだとして、その責任を取ることもこれを持ち出すことひとつすらできないことも、悲しくて仕方がない。きっと、こんな気持ちを心残りと呼ぶのだろう。
じわりと滲んだ涙はすぐに熱気に炙られて消える。
「……アンドラスさん」
自警団のみんなの顔も街のみんなの顔もすっかり消えてしまったあとで、どうしてだか彼の顔だけが消えてくれない。
これも、きっと心残りなのだ。多分、彼こそが私の一番大きな未練なのだ。
死にたいと思ったことなんて、真実ない。
だけど、身勝手な話だけど――。
あの人がもしも少しでも私を悼んでくれるというのなら、今死んでしまっても報われるのかもしれない。
生家を追い出されたあの日、昏い森でひとり「家族がほしい」と泣いた私は、きっともうその願いを叶えてもらっているから。
――大丈夫、大丈夫よ、エリシャ。怖くない。つらくない。
乾燥して罅割れた唇ではもううまく言葉も紡げないから、心の内でそっと呟く。
昔からそうだった。どんなにつらくとも怖くとも、こうして自分を宥めていればいつしか苦痛は消え去った。
――大丈夫。大丈夫。
今度はもう強がりの嘘じゃない。本当に、ちっともつらくない。
私には愛してくれる家族が確かにいたのだと、今はそう思えるから。
――がらん。
ひと際大きな音が鳴る。
とうとう家が崩れ始めたのだろう。顔を上げる。ふと、黒い煙の向こう側に金色に輝く光が見えた気がした。
初めは熱さに意識が朦朧として幻でも見ているのだと思った。だけれど目を凝らせば凝らすほど光はどんどんと大きくなって、次第に人の形を成していく。
「――エリシャ!」
――光から、私を呼ぶ声がした。
はっと閃くような、目映いほど力に満ちた声。
アンドラスさんだ。
幻なんかじゃない。煙の向こうにいたのはアンドラスさんだった。炎に接して紅赤色の髪に金を帯びたアンドラスさんは、普段身に着けている紅の前掛けを腕にかけてこちらへ向かってきてくれていた。
――よかった。アンドラスさんが来てくれたんだ。
安堵に、場違いにも笑みが零れる。
アンドラスさんならきっと助けてくれる。私にはできなかったけれど、彼ならナザリーさんの祈りを守ってくれる。
「あ、アンドラスさん……これを……」
懐からチュールとレースリボンを取り出しアンドラスさんへ差し出す。そうして彼に呼びかけようとして、初めて喉が灼けていることに気づいた。
声が上手く出せなくて聞き苦しいぐらい嗄れた音を、だけどアンドラスさんは聞き逃さない。
アンドラスさんは眉尾と眦をきっと鋭く吊り上げると、私を思いきり怒鳴りつけた。
「――馬鹿野郎!! お前もだ!!」
アンドラスさんは私に前掛けを巻きつけると、足の上に乗る柱を蹴飛ばして私を抱き上げた。
そういえば、この前掛けは特別な素材で作られた、とびきり優れた防火布なのだと聞いたことがある。アンドラスさんの胸に抱かれながら、私はそんな取り留めのないことを思い出していた。
*
アンドラスさんに抱かれたまま外へ出ると、遠巻きにこちらを見る人々の空気が少しだけ和らいだのを感じた。
私たちが無事なことを確認すると、外でずっと気を張り詰めていたらしい漁師のおじさまは周囲の人々たちに号令をかけて、ナザリーさんの家を打ち壊しにかかる。延焼を避けるためだろう。
その集団をさらに囲むようにして待機しているのは水属性と土属性の魔法に適性のある人たちで、身勝手にも現場へ飛び込んだ私とは違って彼らの備えは万全だった。私のせいで事態の収拾により時間がかかってしまっていたのだということがよくわかる。
アンドラスさんが、漁師のおじさまと素早く視線を交わす。
「すまん、すぐ戻る。もう少しの間だけ頼めるか」
「おお、任せとけ」
おじさまの頼もしい返事にアンドラスさんは頷きを返して、そのまま風上にあるご近所さんの家へと向かっていく。どうやら煙の影響が少ない近場の家を臨時の診療所として開放してもらっているようだった。
家の中では家人もそうでない人も、息もつかせぬ慌ただしさで行き交っている。アンドラスさんは革張りのソファの前まで来ると、私をそこへそっと降ろしてくれた。
自らの足で歩きもせず抱えられるがままだった私はというと、今さら全身の震えが止まらなくなっていた。
恐怖がぶり返したということもあるけれど、とんでもない迷惑をかけた上に危うくアンドラスさんの命まで奪ってしまうところだったという実感が遅蒔きに湧いた。
「……火事は、お前のせいじゃない」
少しだけ言葉を探していたようだったアンドラスさんは、絞り出すふうにまずそれだけ言った。
「だけどな、お前にはひとつ、あとで言っときたいことがある」
彼は私の髪をぐしゃりと掻き混ぜると、そう言い残して部屋を後にした。火事の応援に向かったのだろう。
アンドラスさんが去ったあと、私はすぐに治療を施された。とは言っても挟まれた足や喉以外にはほとんどこれといって目立った負傷はない。
ただ足だけは痕が残ってしまうかもしれないということだった。これだけで済んだのは運がよかったのだとも言われて、叱られた。
いくらもしないうち、外の騒ぎは少しずつ収まりつつあった。そんなとき、不意に破裂するような大きな音がばんと部屋に響いて、誰かが私に飛びついてきた。
「ちょっと! エリシャ! あんた、大丈夫なの!? 火事の中、飛び込んでいったって……! なんでそんな真似したのさ!」
ナザリーさんだった。まだ彼女のお仕事の終わる時間ではないはずだったけれど、報せを受けて切り上げてきたらしい。
彼女はまさしく顔面蒼白といった体で私の全身を隈なく検分するように見て、痛ましげに眉を顰めた。私の足首に巻かれた包帯を見つけてしまったのだろう。
「だ、大丈夫、です。アンドラスさんが、助けてくださったので……」
満面に心配を浮かべてくれる彼女が見ていられなくて、私はつい視線を下げてしまう。それで胸元に抱えたままだったチュールとレースリボンの存在を思い出して、後ろめたさを誤魔化すように彼女へ差し出した。
「それよりも、どうぞ。……ナザリーさんのヴェール、きちんとご無事ですよ。……これしか、持ち出せなかったんですけれども……」
「……は?」
感情のない一声だった。差し出したままの指先が思わず震える。
こんな多大な迷惑をかけたのだ。怒られるのも当然だ。せめてヴェールだけは燃やさずに済んだけれど、それだけで取り返しのつく話じゃないことは私にもわかる。
「――なによ、それ……。あんた、こんなもののために死のうとしてたわけ?」
「え……」
どんな言葉も重く受け止めるつもりだった。だけど、彼女の戦慄く唇は私の予想とはまったく外れた言葉を紡いだ。
ナザリーさんは肩をぶるぶると震わせて、ぎゅっと音がするぐらいに拳を固く握り締めた。
「つまり、あんたにはあたしが……友達の命と引き換えにしたヴェールを被って幸せになれるような、そんな女に見えたわけだ?」
私を真っ直ぐに突き抜く瞳はたっぷりの涙に濡れている。
真正面から、頭をがんと殴られたような気分だった。
「…………ち、ちがう……」
それだけしか言えなかった。
舌の根がなくなってしまったみたいに口が回らない。
ナザリーさんの言葉はちっとも消えていかずに私の鼓膜にぴったりと張りついて、思考も言葉も毛糸玉が絡まったように纏まらない。
「ちがうんです……。わ、わたし……私、そんなつもりじゃ……――」
「――はあ!? なにが違うってんだ! ふざけんな!!」
ナザリーさんは私の手からヴェールを毟り取ると、それを床に投げつけた。軽いヴェールは叩きつけられることはなく、ただふわふわと落ちていく。
大切なもののはずなのに、ナザリーさんの視線は私からほんの少しも逸らされない。痛いくらいに鋭い目で私だけを見ていた。
きゅっと持ち上がった頬の上を、幾粒もの涙が留まることも知らずに転がり落ちていく。
「いい? よく聞きなよ……。今あたしがあんたを引っ叩かずにいるのは、あんたを生かして帰した団長の顔に免じてやってるからだよ!」
私の肺はこんなにも膨らんだり萎んだりを繰り返しているのに、何度試してみてもちっとも呼吸がうまくできない。喉に何百本もの針が突き刺さっているみたいに痛い。
悲しかった。
恐ろしかった。
いつも明るく笑いかけてくれる彼女に私がこんな顔をさせてしまっているのだという事実に、目の前が真っ暗になるようだった。
「――そのこと、しっかりそのあほんだらの頭に刻んで忘れんじゃないよ!! バカエリシャ!!」
ナザリーさんは言い切るとそのまま踵を返そうとして、ぴたりと足を止める。そうして床に落ちたヴェールを遣りきれなさそうに拾い上げると、今度こそ部屋を出ていってしまった。私のほうは、もう一度も見てくれなかった。
彼女が出ていってしまってからほとんど間を置かずして、アンドラスさんが部屋へと戻ってくる。さっきまでの私たちのやり取りを見ていたのだろう。いっそ怖いほど穏やかな顔つきをしている。
「……言いたいことってのは、このことだ」
すぐ傍までやってきたアンドラスさんが徐に口を開く。彼を見上げた私の頭に、本当に軽い力で手のひらがぽんと降ってくる。
「お前に教え忘れてた、自警団員として一番大事なことだ」
「一番、大事な……?」
復唱する私に、彼は小さく頷く。
「〝救うべき命のひとつとして、自分のことも数えること〟」
言って、彼は私の隣に座った。ぎしっとソファの軋む音がして、すぐ横で沈んだ座面の反動で身体が少しだけ弾む。
「お前が命懸けで助けになってやりたいと思う奴なら、なおさらだ。そいつに、お前の命を背負わせるようなことはしちゃならねぇんだ」
彼自身の脚を肘掛けにして、アンドラスさんは一層深く腰掛けた。
躑躅色の目は床の辺りを向いているようで、どこか遠い眼差しをしている。
「命ってのはよ、重くてしんどいもんだ。今のお前なら、それをわかってくれると思う」
これまでに彼は、誰かの命を背負ってきたのだろうか。
その重みを知っているのだろうか。
ナザリーさんからも、アンドラスさんからも、酷く詰られるよりも心からの心配をぶつけられるほうが余程堪えた。丁寧に丁寧に自分の愚かさを目の前にひとつひとつ並べられているようで、喉がぎゅっと絞まった。
本当に、すごくすごく、とてつもなく心配をさせてしまったのだろう。その実感と申し訳なさが今頃心中に湧いて、顔も上げられなかった。
「……お前がそういう奴だってわかってて、このことをもっと早くに教えてやれなかったのは俺が悪い。だけどお前も、しっかり自分を大事にしねぇとな」
縮こまるばかりでろくな応えも返せない私に、アンドラスさんはいつになく優しい声つきで続ける。
「お前がまだ自分を大事にできねぇって言うなら、そのぶん俺が誰より大事にしてやりたい。お前が自分を好きになれるまで、――好きになっても、他の誰でもない、俺がお前を守って大事にしたい。
前まではお前を幸せにしてくれるんなら相手が誰だろうと構わねぇって思ってた。……けどよ、今は〝それが俺なら〟って考えちまうんだ」
唖然として隣に座る彼を見る。アンドラスさん本人も、零した言葉に自分自身驚いたように口を覆っている。
暫しの沈黙のあと、アンドラスさんは秘めやかに囁いた。
「……本気でよ、うちに、嫁に来ねぇか? ――お前が好きだ、エリシャ」
どうしよう、と思った。
好きだと言ってもらえて嬉しくなかったわけじゃない。受け入れようとか、お断りをしようとか、そういうなにか明確なこたえがはっきり浮かんでいたわけでもない。
ただ優柔不断に惑っていた。
だって、守られるばかりでいいの?
アンドラスさんはそうは言ってくれるけれど、なにかをもらうばかりじゃ、私が私を許せない。だけど、自分さえ大切にできない私が彼を大切にして幸せにすることが、果たして本当にできるのだろうか。
私はいつか、彼の重荷になるのじゃないだろうか。
なにも言えなかった。
瞬きのひとつさえできなかった。
ただただアンドラスさんを見つめるだけの私に、彼は表情を曇らせてそろりと視線を落とした。
「……すまん。浮かれてたな、こんなときに。お前の気持ち、ちゃんと考えられてなかった」
アンドラスさんが、立ち上がって出入り口のほうへと向かう。顔は見えない。
「ゆっくり休んどけ。レラのやつも来てるから、落ち着いたら一緒に帰ってこいよ」
示し合わせたかのように、ちょうど入れ違いでレラちゃんが入ってくる。彼女もまたどこからか駆けつけてきてくれたのかもしれない。額に汗を浮かべたレラちゃんは、アンドラスさんと私を見比べて明らかに戸惑っている様子だった。
「なにかあったの? おにいちゃん。……エリシャさん? 大丈夫?」
あの炎の中で炙られていたときよりも顔がかっと熱い。今にも泣き出してしまいそうだったけれど、徒に彼を傷つけた私が泣いていいわけもなかった。
レラちゃんはすでに立ち去ってしまったアンドラスさんの行方を視線だけで心配そうに追いながらも、私に寄り添おうとしてくれた。
だけど、私はレラちゃんの心遣いに応えることもできなくて。彼女にアンドラスさんの前掛けだけを託して、無理を言って先に帰ってもらった。
今はひとりで、冷静になるべきだと思った。
*
あれだけの騒ぎも、もう遠い過去のようだ。夕焼けに赤く染まり始めた街は、もうほとんどなにもなかったみたいに穏やかな日常を取り戻しつつある。
それが、自分ひとりで世界に馴染めずにいるような妙な心細さを弥増しにした。あんなに丹念に治療をしてもらっておきながら、しぶとい余燼がずっと巻きついているような痛痒感を足首に感じる。額に粘ついた汗が滲む。
レラちゃんを先に帰しておきながら、結局のところ私にとっての帰る場所も自警団以外にはない。ぎこちなく、砂粒のひとつひとつを磨り潰していくようにのろのろと歩く。
なんとはなしに顔を上げると、仲のよさそうな母子の姿が見えた。ふたりは仕事場から出てきた父親らしき男性を迎えて、連れ立って帰路に就いていく。
それぞれ高さの違う三つの影はついたり離れたりを繰り返して、最後にはひとつの塊となってどこかにある彼らの家へと遠ざかっていく。夕陽で赤くなった地面に仲睦まじくくっきりと刻まれた家族の証は鮮明で、目に痛い。
「――アッ! エリシャちゃん!」
ぼんやり眺めていたところへ大きな声で名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
「エッ! エリシャちゃん!?」
「オッ! エリシャちゃん!」
次いで矢継ぎ早に上がる声に、見知った人だとすぐにわかって振り返る。
そこにはやっぱりいつも仲良し三人組のおじさまたちがいて、三人ともがびっくりしたような顔でこちらへ向かって駆け寄ってきているところだった。三人で団子状に縺れ合いながらばたばた走っているのが、失礼かもしれないけれど年端もいかない少年のようで若々しい。
私が見たときには火事の現場には漁師のおじさまの姿しか見えなかったと思ったけれど、大工のおじさまと荷持のおじさまはあとから応援に駆けつけてくれていたのだろうか。
「あ……、こんにちは、おじさまがた。先ほどはお疲れ様でした」
「いや、それよりもどうしてひとりで! アンドラスの野郎やレラージェちゃんだっていたのに! 傷は大丈夫なのかい?」
漁師のおじさまは私の足許を見ると、やや煤けた顔をまるで自分自身が大きな怪我をしたようにくちゃくちゃにした。
「ごめんなァ。俺がちゃんと目を配ってやれてたら、エリシャちゃんのかわゆいあんよにこんな傷を負わせずに済んだのに」
「あ、謝らないでください! むしろ、私のほうが謝らないといけないのに。こんなにもご迷惑をおかけして、なんと申し開きをすればいいのか……」
「いやァ……俺ァ、エリシャちゃんが無事なら、なんだって。……って、〝無事〟ではないよなァ」
私とおじさまは揃って押し黙った。背後のふたりのおじさまも、所在なさげに目を泳がせている。
ずんと重くなった空気を変えるように、漁師のおじさまが殊更に明るく笑った。
「……にしても、やけにしょぼくれちゃって。もしかしないでも、アンドラスにこっ酷く叱られでもしたのかい?」
「い、いいえ、そんな……。アンドラスさんはすごく優しくて……」
「じゃあ、あれだ! とうとう告白されちまったとか」
冗談粧した言葉は見事に図星を突いた。
「うん」とも「違う」とも言えなかった。
むっつりと口を閉ざした私に、漁師のおじさまは一層気まずそうな顔をした。
「……マジで?」
「ワ、ワアッ……オウゥッ」
「泣くな、むさっくるしい」
そして今突然にいったいなにがあったのか、大工のおじさまがその隣でもう立ってもいられないぐらいに泣き崩れる。嗚咽のたびに大きく上下する山のような背中に、荷持のおじさまは容赦のない張り手を打ち込んでいる。
「……そ、その、でもまだ、お返事はできていないんです」
「ワアアッ、ウオーッ」
「なに喜んでんだ、浅ましい!」
観念して口を開いた私に、大工のおじさまから諸手を挙げてまでの歓声が上がる。荷持のおじさまはそんな彼の背中にさっきよりもずっと勢いのある打撃を食らわせていた。
漁師のおじさまは、他ふたりの姿がそこにないみたいに私の顔を覗き込んだ。
「告白されたのを受け入れようとか、断ろうとか、どちらにせよ君の中でなにか腹積りは決まってんのかい?」
「わ、わかりません」
「わからない?」
「なんて言えばいいのか、わからなかったんです」
「んん……よくわかんねえけど、アンドラスのことが嫌いで困ってんなら、きっぱりフっちまうのがいいと思うけどな」
「き、嫌いだなんて!」
難しげな顔の漁師のおじさまの隣、歯に衣着せず放たれた荷持のおじさまの言葉に驚いて、私は弾かれたみたいに顔を上げた。
「違います。アンドラスさんが嫌いなんて、そんなじゃなくて。私はただ……許してもらえないんじゃないかって――」
「――誰に?」
今度は大工のおじさまのひとことが、私の言葉を裂くようにして差し挟まれた。
思いがけず漏れた本音に間髪入れずのその問いが、釘を打つように鋭く刺さる。私はわけもわからず自分の口を押さえていた。自分が今なにを口走ってしまったのかが、よくわからなかった。
大工のおじさまが立ち上がる。砂に塗れた膝を払いもせず、私にまた訊ねる。
「誰に許してもらえないんだと思う?」
嘘じゃない。本当に許してもらえないんだと思った。
でも、誰にそう思われることを恐れたのか。その答えが、いつまで経っても口をついて出てこない。
それもそのはずだ。こんなにも優しい世界で、いったい誰が私を許さないと言うのだろう。
押しつけがましくも、私はいったい誰を悪者にしようとしているのだろう。
「――俺は、エリシャちゃんだと思うけどな」
続けられた言葉が、すとんと腑に落ちた。
「エリシャちゃんを一番許してないのは、エリシャちゃんだと思う」
大工のおじさまのきらきら輝く円らな瞳が、内面までを見通すように私を覗いている。
そうだ、私だ。
私だった。
身体を分厚く覆っていたなにかが、一気に剥がれ落ちたような感覚があった。
私自身を最も恐れ、忌むべき魔女だと思っているのは――他の誰でもない、私だ。
かつて投げかけられた言葉が、投げつけられた石が、私の中に魔女を作った。そうしてもう誰も私を魔女と呼ぶ人はいないのに、私だけが未だ私の中に醜く恐ろしい魔女の面影を見ている。
脚ががくがくと震えて、もう立ってもいられなかった。
思わずへたり込もうとした私を、大工のおじさまの大きな手ががっしりと支えてくれる。
「正直言って、エリシャちゃんが誰かと結婚しちゃったりっていうのは寂しいよ」
太くて柔らかい声が頭上から降り注いでは私の身に優しく染み渡っていく。丸々大きく焼き上げたパンみたいな手が、染み込んだ言葉を逃がすまいとするように背中を何度も優しく擦ってくれる。
その手が温かかった。
本当に温かかった。
「エリシャちゃんは俺らのアイドルだから、嫌だって、俺らはどうしても言っちゃうけどさ。でも、俺らのそういう気持ちなんて、そんなのなんにも関係ないんだよ。
他の誰がなんて言ったって、君自身が怖いと思ったって、エリシャちゃんはエリシャちゃんが幸せになれる道を遠ざけたりしちゃ駄目だ」
「お、おじさま……」
「大丈夫だよ。エリシャちゃんは幸せになれる。なんたって、君は幸せになるために生まれてきた女の子なんだから」
目が燃えているみたいに熱い。視界はどうしようもないくらいに揺らいでいる。だけど、大工のおじさまの優しい顔だけはくっきりと見えるのがなんだか可笑しかった。
黒く日焼けした顔にぽてぽてとついた眉毛も、ころんとした両目も、全部が明瞭だ。そのすべてが私を穏やかに勇気づけようとしてくれているのがよくわかる。
このままではいけないと、強く思った。
こうまでたくさんの人たちに支えられておいて、私はいったいいつまで過去の傷を舐め回すつもりなのか。
いい加減に気づくべきだ。恐れず認めるべきだ。私が覗く鏡の中にしかいない魔女と目を合わせている暇なんて、もうないんだから。
こんなにも私を想ってくれる人たちを前にして自分の心に背き続けること以上の不義理なんて、きっと世界中を探したってどこにもない。
優しく支えてくれるおじさまの手を借りて、私はもう一度自分自身の足でしっかり地面に立った。
夕焼けに染まる街並みは赤く輝いて私を見返し、目の前に立つおじさまたちも赤々と染まって私を見ている。
その優しい眼差しを受ける私も、また赤い。ただただ赤い。青白い膚も赤黒い髪も、なにもかもが赤に染まっていた。
なんだか、生まれ直したような気分だった。
「もしも……」
「うん?」
口を開いた私に、大工のおじさまが大きな背を丸めて耳を近づけてくれる。
「怒らないで聞いてくださいね。……もしも私にお父さんがいたら、こんな人だったのかしら、って……ちょっと、思っちゃいました」
「へ、へへ……、怒ったりなんかしやしないよ。光栄だなあ」
大工のおじさまは私の言葉に驚いた様子で、それでもにっこりと笑ってくれた。
*
息を切らして、アンフェ通りを抜けて自警団のあるスーニア通りへと足早に向かう。気が急いているせいなのか、足の痛みはもうすっかり消え失せていた。
とにかく今は、一刻でも早くあの人の顔が見たかった。謝りたかった。彼に伝えなければいけない言葉が、両腕いっぱいに抱えきれないぐらいにあった。
そんな私の気持ちが、今ばかりは世界に通じたのだと思った。
通りの向こうからアンドラスさんがやってくるのが見えた。
涙がぶわっと込み上げる。
胸の内に住みついた想いにいつか気がついたときのような、金赤色の夕映えが目に焼きついて目映い。
燃えるような夕陽を満身に浴びる彼が本当にきれいだったから、涙と一緒に溢れてやまない心はもう堰き止められもしなかった。
――あなたが好き。
私は――アンドラスさんが好き。
恐れもない。
罪悪感もない。
ただ好きだと、真っ直ぐに感じる。
――好きだ。
――好きだ。
――――好きだ!
なんて息苦しく醜く、だけれど――堪らなく愛おしい感情だろうか。
「あ、アンドラスさん……――アンドラスさん!」
私の呼びかけに、アンドラスさんの足が怯んだようにびくりと止まる。それでも私は構わず声を張り上げた。
「……っ、意気地なしでごめんなさい! わた、私もっ! 私も、アンドラスさんが大好きです!」
咥内に痛みと逆流した息が込み上げて激しく咳き込む。一気に枯渇した酸素で膝ががくんと折れる。慌てて駆け寄ってきてくれたアンドラスさんが心配そうな顔で私の肩を抱いてくれる。
それが嬉しくて嬉しくて、私はもう本当にどうしようもない女になってしまったのだと思った。
あなたと生きていきたいと思う。
あなたの隣にいたいと強く思う。
私も、あなたを守って生きていきたい。
きっと、私もずっとそうだった。他の誰でもない私自身が、あなたを幸せにしたいのだと。
今さら気づいた。気づいてしまった。
気づけないまま死んでいく想いでなくてよかったと、今は心から思う。
「好きです、本当に……嘘じゃないです」
「エリシャ、」
「あなたが好き。好きなんです」
「わかった、わかったからあんまり無理して喋んな」
「いいえ、お願い、聞いてほしいんです」
惨めさを探して罰を受けたつもりになるのはもうやめよう。姿かたちのない悪意を手繰り寄せて自分を戒めたような気になるのは、もう終わりにしたい。
「私は臆病で、甘ったれで、情けなくて……でも、まだ間に合うなら、こんな情けない私でもいいなら……」
私はなにも望まれない子供だったかもしれないけれど、それでも生まれ生きてきた私は今、幸せになるために息をしている。
――こんな私の幸せを望んでくれる人たちが、確かにここにいるのだから。
「――エリシャを、あなたのお嫁さんにしてください……」
ぐしゃぐしゃの顔とみっともない声で、それでもせいいっぱいに告げる。
私の肩を抱いてくれていた手が感極まったように背中へ回った。息も詰まるくらいに力強く抱き締めてくれるその腕が、想いが溢れて身も心も弾け飛んでしまいそうな私を繋ぎ止めてくれているようだった。
「……言っただろ、お前が好きだって」
「はい、っ……!」
「嫁に来い、エリシャ!」
「はいっ、アンドラスさん……!」
地平に臨むよりなお眩しい。私の光。私の希望。
私に咲く愛の華はきっとずっとあなたの形をしていたのに、私はこんなにも意気地なしで。
だけどあなたは、そんな私をも受け入れてくれる。
強く抱いてくれる腕が嬉しくて離れがたくて、私も彼の背に手を回してぎゅうっと力を籠めた。
……今この場が、まだ人通りも疎らにある往来であることもすっかり忘れて。
***
――さて、どうやらナザリーさんの話してくれた為来りには、まだ続きがあったようだった。
花嫁の幸せを願って、ヴェールに針を入れる風習。なんでも、その祈りにも似た風習に参加できるのは花嫁の親族か、もしくは花嫁と親しい未婚の娘のみに限られるのだという。
後日、お祝いの品で溢れ返った自警団にナザリーさんが「結婚はあたしよりも後にしろ」と怒鳴り込んでくるのは、また別の話だ。
おまけ
◎おっさんズ
「オゥッ、オォン……! エグッ……ォエッ……ゴエェッッ!!」(泣きすぎて嘔吐いている)
「泣くなよォ。お前、よく頑張ったよ、なあ?」
「そうだよ。今日は俺らが奢ってやっから、吐くまで飲もうぜ」
◎フォル+レラ
「レラから話を聞いたとき、一時はどうなることかと思ったけど、なんだかんだ丸く収まったみたいでよかったね~」(表を見ながら)
「本当に! 兄貴が断食三日目の鶏みたいな顔で部屋を出てきたときもそうだけど、エリシャさんに『大丈夫だから先に帰って』って言われたときなんてどうしようかと思ったもの。無理矢理担いでいくかどうか、すっごく迷っちゃった」
「ウーン。なんとかなった今だから言えるけど、エリシャにフラれかけて断食三日目の鶏みたいな顔したアンドラ、ちょっと見てみたかったカモ……」
――――――
こちらはSkebにてたわちゃんさん(@yamamori_sugar)にお願いした自創作キャラ夢小説です。Skebのリンクはこちら
素適な小説と掲載許可をいただきありがとうございました!