翠催す華作り

ひょんなことから魔界ーラジエントへと降り立ったエリシャは、自警団で暮らし始める

前話『紅、華立ちて』の続編になります。

――――――

 

 蜘蛛の糸のごとき薄雲が棚引く、水で薄めたように白っぽい空。そこから降る柔らかな日差しがふと思い出したように窓を透き通っては、私の手元をちらちらと掠めていく。

 その温かな光明の甲斐もなく、私の指先は依然として冷え固まって強張ったようになっていた。血色の悪い手を身の影にこそこそと隠しながら開いたり閉じたりすると、ようやく僅かばかりに血液が身中を巡り出す感覚がしてくる。

 

 誤解と善意が上手に噛み合って、私とアンドラスさんの婚約パーティーなるものが催されてしまってから、ものの一週間が経過した。

 パーティー後の二、三日程度はとても慌ただしかった。あの集まりに参加していなかった常連さんたちからお祝いの言葉をいただいたり、婚約祝いの贈りものをいただいてしまったりと、なにかとばたばたしていたせいだ。

 しかしながら、この頃はそれがまったくの誤解であったということが段々と知れ渡ってきたようだった。浮足立って熱を上げたような空気も随分と落ち着いてきて、私たちはほとんどいつも通りの日常を取り戻し始めていた。

 そんな中で今日も今日とて熱気と香気とが立ち籠める台所に立ち、アンドラスさんとふたりでお昼に向けての仕込みに勤しんでいるのだけれども――。

 

「……あの、アンドラスさん」

 

 肉を漬けるための調味液を素早く掻き混ぜつつ、隣にいる彼に呼びかける。

 が、返事はない。

 横目でそっと窺うと、アンドラスさんは眉間に峡谷も斯くやと言わんばかりに深い皺を刻んで、手元の豚肉の塊をまるで親の仇みたいに睨みつけていた。左手に構えた肉切り包丁のぎらつきが彼の顔に妙な照り返しを与えて、嫌に迫力が増している。

 

「あ……アンドラスさん?」

「…………」

 

 やはり返事はない。

 私は液の入った器を脇に寄せてから、一歩二歩と彼に近付いて息を吸った。

 

「――あの! アンドラスさんっ」

 

 三度目の呼びかけにして、彼のどこか漠々としていた躑躅色の瞳がようやく正体を取り戻す。見開いた目の中に私がぱっと映り込む。

 するとアンドラスさんはいっそ大袈裟なくらいに仰け反って、私が近付いたぶん一歩二歩と退いた。

 

「……ど、どうした?」

「その、漬け汁の用意が終わったので……。お肉のほうは……どうですか?」

 

 「どうですか」もなにも明らかに準備が終わっていないのは見て取れたが、それ以外になんと言えばいいのかもわからず、もごもごと訊ねる。気まずさが滲む私の問いかけに、アンドラスさんも少し決りが悪そうに顔を顰めた。

 

「ああ、悪い……。すぐに終わらせる」

 

 ――そう、私たちはほとんどいつも通りの日常を取り戻し始めていた。だけれども、アンドラスさんだけはあの日以来、なにか様子がおかしかった。

 どこがどうだと具体的に言えるわけではないけれど、私と話をするときなんかはずっとぎくしゃくとしているし、強張った硬い表情をするようになった。ひとりで物思いに耽っている姿を見かけるのも多くなったように思う。それでいて私が声をかけると、そそくさと足早に立ち去ってしまう。

 とうとう常連さんたちからも「もしかして喧嘩した?」とまで訊かれてしまったのは、昨晩のことだ。

 正直言って、私に然したる心当たりはない。

 だけどアンドラスさんの様子がおかしいのは多分私が原因で、他の人たちからの目にもそのように見えるのだろうということだけは、なんとなく肌で感じていた。

 考えを巡らせている間にも任されていたぶんの作業は終わってしまって、「ならば」とアンドラスさんの手伝いを申し出るも断られてしまう。仕方なく、私はいつものようにふたりぶんのお茶を淹れて食堂へと向かった。

 

「ふう……」

 

 人気のないがらんとした食堂の一角に座って、台所では堪えていたため息を溢す。それでも胸に重たく居座った暗愁はびくともせずに、不安と焦燥だけが争うようにして噴き出した。

 

 ――自分でそうと気付いていないだけで、きっと私、アンドラスさんになにかしてしまったんだわ。

 

 そうでなければ、私の前でだけああも態度がぎこちなくなる説明がつかない。重要なのは、私がいったいなにをしてしまったのかということなのだが。

 

「……、なにも思いつかない……」

 

 背を丸めて膝を見下ろしながらに落とした呟きは、暗く沈んでいた。

 誰かを不快にさせておいてその理由にちっとも思い至らないなんて、本当にとんでもない話だ。だけどどれだけ記憶を探ってみても、私は未だこれといった手がかりに行きつくことができずにいた。

 パーティー以前までの会話におかしなところはあまりなかった、と思う。日々の仕事も今まで通りにできていた、気がする。とは雖も、この期に及んで自己評価ほど当てにならないものもない。人からしてみれば、もしかしたらなにか不足があったのかもしれないけれど。

 

「仕事……」

 

 仕事、といえば。

 自分で呟いたひとことに鋭い輝きが閃いて、私は口元に指をあててより深く思考に浸る。

 そういえば最近、アンドラスさんはなにかと私を手伝おうとしてくれる。元々優しい人だからいつも様子を気にかけてくれていたのは感じていたけれども、それがここ一週間はいつにも増して顕著だった。ただでさえ忙しい彼に負担をかけることが申し訳なく大概は遠慮しているのだが、妙な強引さでそのまま仕事を持ち去られてしまうことも度々あった。

 先日なんていつものようにトイレ掃除をしていたら、見たこともないようなものすごい顔で凝視されたあとに、手にしていた掃除道具を引っ手繰られてしまうということがあった。

 「なにかおかしなことをしてしまっていただろうか。なにか間違えてしまったのだろうか」なんて怖々としている私を尻目にアンドラスさんは黙々と掃除を済ませて、その後はなにごともなかったかのように立ち去っていってしまって、ひたすらに首を傾げたものだった。

 

「だけどやっぱり、そうだわ……」

 

 全ての点と点が次々と線で繋がっていくような感覚に、私は呻いた。

 そうだと考えれば、今までのアンドラスさんの行動全てに理由がつけられる。彼がなにか思い悩んでいるようなのも、ことあるごとに私を手伝ってくれようとしているのも。

 

「私の仕事に、なにか落ち度があるんだ……」

 

 あまりの衝撃に目眩がして、今にも倒れてしまいそうだった。

 アンドラスさんは確かに優しいけれども、殊仕事というものに対しては誠実な人だから、私のなすことに不手際があるならその都度口に出して伝えてくれるのではないかと思っていた。その甘えを見抜かれてしまったのか、もしくは――正すまでもないと思われてしまうほど、失望されてしまったのだろうか。

 ありとあらゆる後ろ向きな考えがぐるぐると頭を巡って止まない。

 自警団は、元々私がいなくとも回っていたと聞いている。そんなところに私が家事手伝いという名目で置いてもらっているのは、言うまでもなく彼らの厚意に他ならない。

 俯き閉ざした真っ暗闇の視界に、アンドラスさんを始めとした自警団のみんなの顔が浮かんでは消える。

 みんな、こんな私を好きでいてくれる優しい人たちだ。喩え私が役立たずのお荷物であったとしても、彼らはきっと私を追い出せないし、そもそも追い出そうとすら思ってくれないかもしれない。

 

 嬉しいと思う。

 ありがたいと思う。

 本当に、代え難い人たちに出会えたと思う。

 だからこそ、その優しさと気持ちに返せるものがない私を、なにより私だけは許せない。

 

「……よし、」

 

 目を開く。ばくばくと妙な調子で鳴る心臓を鎮めるために息をついてから、両手で拳をぐっと握る。私がひとつの決意を固めている間にも仕込みを全て終えたらしいアンドラスさんは食堂まで入ってきて、私の向かいの席に腰を下ろした。

 会話のひとつもない重苦しい空気の中、時折疲労を含んだようなアンドラスさんの吐息が聞こえる。それにずきずきと痛む胸は見ないふりで、私は意を決して口を開いた。

 

「……あ、アンドラスさん」

「な、なんだ?」

 

 やけに沈痛にお茶の水面を見つめていたアンドラスさんが、私の呼びかけにはっと顔を上げる。

 

「図々しいお願いですが、……私を叱ってくれませんか?」

「――は?」

 

 私の言葉に、アンドラスさんが呆気に取られたようにぽかんと大口を開ける。こんなときなのに久々に真っ向から目が合った気がして、私は少しだけ喜んでしまった。

 

「い、至らないところがあるなら、なんでも仰ってほしいんです! 私、できる限り努力します!」

 

 立ち上がった拍子で椅子の脚が床をがたんと踏み鳴らす。私たち以外には誰もいない食堂に、張り上げた声がうわんと反響する。

 こんなことは、きっと本来なら私みたいな立場の人間が人にお願いできるようなことではない。自身で行いを見つめ直し、自ら気付きを得て行動を正していくのがあるべき姿なのだろう。

 結局誰かに頼らざるを得ない自分が情けなくないと言えばそれは嘘になる。だけど、そうやって情けなさを悔やんだり恥じ入ったりしているだけの自分でいれば、私は本当にただの役立たずのままだ。

 勢いづいた私はほとんどテーブルから身を乗り出すようにして、鼻息荒く前のめりになって迫った。怯んだアンドラスさんは咄嗟に私の肩を押し戻そうとしたのか腕を伸ばして、結局指先ひとつも触れないままでおろおろと手を戻していく。

 

「――ま、待て、待て。なんたってそんな話になってんだ? お前はよくやってくれてるだろ」

「う、嘘を吐いていますか?」

「なんで俺がお前に嘘吐く必要があんだよ。ちょっと落ち着け」

 

 アンドラスさんは困惑一辺倒で、困ったように眉根を寄せている。そんな彼の様子にさすがに興奮しすぎたのを自覚して、椅子に腰を落ち着けて居住まいを正した。

 こんなに躍起になって大声を出すなんてことは早々ない。慣れない真似をして今にも口から転げ出さんばかりに暴れ回る心臓を宥めるように胸元を撫でながら、私はふうふうと息を吐いた。

 

「すみません、驚かせて……」

「いいけどよ、別に……。どうした、急に」

「アンドラスさん、最近よく難しい顔をして私を見るので、」

「……あ?」

「私の仕事になにか問題があったんじゃないかって……」

「あ、ああ……。あ~……」

「でも情けない話、自分ではその問題がなんなのかがわからないんです。本当にすみません」

「…………なるほど」

 

 私が必死に言葉を繋ぐごと、アンドラスさんはなにか自分の中で得心がいったような面持ちになって、最後には苦々しく顔を歪めた。

 ひと呼吸置いて、アンドラスさんが言う。

 

「……まずひとつ言っとくと、そいつは俺ン中の問題だ。お前に非はねぇ。誤解させたんなら、悪かった」

「私が至らず、アンドラスさんを失望させてしまったというわけでもなく……?」

「そんなこと言ったら、俺はお前よりも先にがっかりしなきゃいけねぇ奴らが大勢いるだろうが」

 

 「うちの犬ころとか、常連のタダ飯食らい共とかよ」と冗談めかして続けられた言葉でいくつかの見知った顔がぽぽぽぽんとリズミカルに浮かびかけて、必死に頭を振る。別に名前を出されてはっきりと言われたわけでもないのに、勝手に「あの人たちのことかしら」なんて想像するだなんて、あまりにも失礼すぎるわ。

 どうにかして頭の中の妄想を振り払うべく話題を変えたくて、私は改めて口を開く。

 

「ええと……、それじゃあ、アンドラスさんの〝問題〟というのは?」

「それは……」

「なにか悩みごとがあって、それが私でもお役に立てることならお力になりたいです」

 

 話題を変えたいという意図ありきではあったものの、これも紛れもない私の本心だ。

 いつもお世話になってばかりいるのだから、ささやかでも少しずつでも、なにかお返しができればいいなと常々感じていた。ところがついさっきまでは普段通り流暢にお話ししてくれていたはずのアンドラスさんは、またずんと重たく黙り込んでしまった。

 そもそもが頼りきりの身で「力になりたい」だなんて、あまりに差し出がましい申し出だっただろうか。

 

「……どうしても話しにくいこともあるかと思いますから、無理にとは言えませんが、」

「――……なあ、」

「は、はい」

 

 優柔不断に項垂れた私の言葉を遮ったアンドラスさんは、なにかを決断したようにも、自らを奮い立たせているようにも見えた。

 アンドラスさんは両の指をぐっと固く組み合わせると、その手を睨みつけたままで私に呼びかけた。彼の緊張が伝わってくるようで、私も応える声が震える。

 

「そのバレッタ、」

 

 ――バレッタ?

 

「え? あ、はい」

「レラとフォルからもらったやつだったよな。あれから、ずっとつけてんだな」

 

 思いがけない話題につい頭の後ろに手をやると、指先につやつやと硬質な感触があたる。例のパーティーの日に、レラちゃんとフォルちゃんが贈ってくれたバレッタだ。アンドラスさんが言う通り、贈ってもらった日から毎日使わせてもらっている。

 てっきりなにか打ち明けてもらえるものだとばかり思っていたから、他愛もない雑談を持ち掛けられて拍子抜けはしつつも、それ以上の安堵が先立って表情が緩む。

 こんなふうに穏やかに言葉を交わし合うのも、随分久しぶりのことだった。

 

「……はい。プレゼント、嬉しかったので。とても綺麗な意匠ですから、私には過ぎた品で不釣り合いなような気もしてしまうんですけれど……」

 

 その安堵が、私の緊張を必要以上に緩めてしまったらしかった。胸に秘めていた暗い本音を零すように口にしてしまった。

 だけど事実、私の髪はこんなに素敵な装飾品が似合うようなものじゃない。

 満身にこびりついた卑屈さから、身支度のたびに引け目を感じてしまうことが本当に後ろめたかった。それでも私がバレッタを手に取るだけでレラちゃんとフォルちゃんは嬉しそうににこにこしてくれるから、その笑顔に勇気づけられる自分もいて。今日も虚栄を含んで飲み下すような心地でバレッタを身に着けた。

 こんなことを考えているなんて、誰にも絶対に言えないと思っていたのに。胸裡に隠してしまい込んだ全てをどうしてだか打ち明けてしまいたくなるような魔力が、アンドラスさんには宿っているように思えてならない。

 そうまで考えて、あまりの馬鹿馬鹿しさに手の甲に爪を立てた。

 

 ――ううん、違う。こんなの、こじつけ染みた責任転嫁だわ。

 

 彼にそんな魔力なんてない。私がそう思いたいだけ。ただの甘えだ。

 子供のような言い訳がましい心を見透かされるのが恥ずかしくて顔も上げられず、視線をテーブルの木目でできた迷路に迷い込ませる。

 視野の隅でテーブルの上に置かれたアンドラスさんの拳がぐっと強く握られたのが見えた。

 

「不釣り合いなんてあるかよ。むしろ、かわ――…………」

 

 反射的に、私は顔を上げた。

 

「か、か……――髪、結構長いけど、お前、伸ばしてる理由とかあるのか?」

「えっ」

 

 先ほどから二転三転としていく話題に戸惑いを覚えて、とうとうきちんと聞こえていたにも関わらず無為に訊き返してしまった。対するアンドラスさんはなにか疲れ果てたような顔つきでテーブルを見下ろしている。

 アンドラスさんたち華族の人々は美しい髪色をしているだけあって髪に対してとても思い入れのある一族だと教えてもらったことがある。もしかしたら前々から私の髪の長さが気になっていたのかもしれない。

 彼の妙な素振りが気にかかるところではあるけれど、あちらこちらへ飛び交う話題の理由に自分の中でひとつの見当をつけて、半ば無理矢理自らを納得させる。

 

 ――でも、驚いた。一瞬、「可愛い」って言ってもらえたんだと思っちゃった。

 

 信じられない聞き間違いをしたものだ。分不相応に残念がる気持ちと照れを誤魔化すために、何度も目を瞬かせる。

 

「え……っと、……実は私のこの髪色、故郷ではとても珍しいものだったんです」

「そうなのか?」

「ええ、自分以外で同じような髪の色をしている人は見たことがないし、ほとんど聞いたこともないくらい。私が人との交流を絶って、引きこもっていたせいもあるかもしれませんが」

 

 仄かな驚きを含んだ相槌にこくりと頷く。

 アンドラスさんの出自を考えれば、彼の周囲にはむしろほとんど赤い髪をした人たちしかいなかっただろうから納得の反応だ。

 

「産まれ育った村でもそこを離れて移り住んだ先でも、この色は悪目立ちして……。だから私、実を言うとこの髪が嫌で嫌で堪りませんでした」

 

 「それなのに伸ばしているのか」と彼の表情がありありと語る。私は少しだけ答えに困って、結局正直に打ち明けた。

 

「父譲りの、髪色だったそうなんです」

「親父さんの?」

「はい」

 

 私が知る限り、唯一故郷で私以外にも赤い色を持っていた人。祖父母の怨嗟と村の人々の揶揄に塗り潰された、顔も知らない私の肉親。

 アンドラスさんの静かで穏やかな声が心地よくて、つい調子づいて色々話してしまいそうになる。自身を戒めるために膝の上で重ねた手の甲により深く爪を突き立てた。

 

「……その、長くなるかもしれませんし、聞いていてあまり気持ちよくない話になってしまうかも、しれません」

「お前が話してもいいと思えるなら、俺は聞きたい」

 

 間髪入れずの答えだった。アンドラスさんはこのときばかりは私を真っ直ぐに見てそう言った。鮮やかな瞳が宿した光に、嘘偽りの影は欠片もちらつかない。

 

「:……私、小癪です」

 

 ぽろりと漏らしたひとことにアンドラスさんは変な顔をして私を見返す。

 

「アンドラスさんがそう言ってくださること、ちょっとだけ期待してた気がします。いやらしくって駄目ですね、こんなの」

「なんだ、そんなことかよ。いいじゃねぇか。ちょっとぐらい、あざといとこがあったって」

「そんな……」

 

 なんて甘ったるいことを言うのだろう。抑えきれずに緩みかける口元を手で隠しつつ、私はアンドラスさんをちょっとだけ睨んだ。

 

「……私がつけ上がって手のつけようもなくなったら、アンドラスさんが責任を持ってきちんと叱ってくださいね」

「おうおう、任された。マ、自分からこんなこと言ってるうちは必要ねぇだろうがな」

「もう、そんなこと言って。知りませんからね、本当に」

 

 言い合いとも呼べないようなじゃれ合いは示し合わせたわけでもないのにぴたりと止む。緊張で渇いた喉を自覚して、私はお茶をひと口飲んだ。アンドラスさんも、倣うように茶杯を手に取る。

 

「髪を伸ばしていた理由、なんですけど」

「ん」

「他力本願な話で恥ずかしい限りなんですが……、父に私を見つけてほしくて伸ばしていたんです」

 

 ひとりきり髪に櫛を通していた日々を思い出す。セゼンリースで過ごしてきたこの一年は、あまりにも尊すぎて眩しすぎた。私の身が地面に落とす影はまだあのふるさとに濃く深く残っているはずなのに、なんだか随分遠い未来にまで来てしまったようだった。

 

「ここに来る前までひとり暮らしをしていたというのは以前にお話ししたと思うんですが、それよりも前は母方の祖父母の元で厄介になっていたんです」

 

 祖父母の顔は最早霞がかったように朧気だ。温情をわけ与えられながら薄情なものだと自嘲する。

 本当は影も形もない父などではなく、彼らにこそ好かれたかった。少なくとも私が産まれてからずっと一緒にいてくれたのはあの人たちだったから。それを関心が望めないとわかったらすぐに見切りをつけるだなんて、我ながら高慢にもほどがある。

 

「父は、母の妊娠中に蒸発してしまったそうで。困り果てた母は駆け落ち同然に飛び出した村に帰り着いたはいいものの、私を産んだことが原因で衰弱してしまって、ほとんどすぐに亡くなったと聞いています。それで、私はそのまま祖父母の家に。

 ……祖父母は人が善いので、母を死なせてしまった私でも見捨てることができずに、面倒を引き受けてくださったんでしょうね」

 

 どんな顔でこんな話を聞いてもらえばいいのかがわからなくて、ひとまずへらりと情けなく笑った私になにを思ってか、アンドラスさんの茶杯を握る指がぴくりと動いた。大きな手が力んでいるのが、白む爪の先で見て取れる。

 私の不格好な笑顔を見苦しいと思われたのでなければ、それでいい。

 実の伴わない笑みを浮かべたままで、私は続ける。

 

 愛する娘を孤独にした男の血を引き、剰え彼女を殺めた私を祖父母が嫌うのは、当時こそ割り切ることは難しかったが当然のことだったと思う。それでも家を追い出されるまでに最低限生きていくのに必要な生活の術を叩き込んでもらえたのは、彼らなりの優しさだったに違いない。

 その後、村から離れた森の中で打ち捨てられた小屋を見つけることができたのは本当に運がよかった。至るところに埃が堆く降り積もって蜘蛛の巣が幾重にも張られた家はお世辞にも住みやすそうだとは言えなかったけれど、長く人の手が入っていない様子であるということが私をあまりにも安心させた。

 だって、少なくともここにいさえすれば誰も私の髪を見て嫌な思いをしない。

 その事実は紛れもなく私の救いに相違なかった。だというのに、その日の夜はひとりでに出てくる涙がいつまでも止まってくれなくて、大声を上げて泣き喚いたことをよく記憶している。記憶にある限りで声を上げて泣いたのは生まれて初めてのことだった。

 それからは、ぼさぼさで汚い髪の手入れをしながら息を殺すように森で暮らしていた。なにもかも全てをひとりで賄うことはさすがに難しく、時折近くの町まで出向くことは避けられずに町の人々を不気味がらせてしまうことはあったけれども。かつてと比べるべくもなく心が波立つことの少ない、穏やかな日々だった。

 それにあの町には、こんな私にも友達と呼んでも許される子がひとりだけいた。

 

 たくさん話をしたせいだろうか。胸が痞えるように苦しくて、ひとつ深呼吸をする。

 

「私、いつかなにかの間違いが起こりさえすれば、父が私を迎えに来てくれるんじゃないかって、期待してたんです」

 

 目線を下げれば、自らの赤黒い髪が嫌でも視界に入り込む。

 

「そのときになって、この髪が父にとっての目印になってくれれば、って……」

 

 もちろんそんな間違いは起こらなかったし、結局髪を短く切り落とすことをやめてから少しもしないうちに私は村を離れたわけだけれども。それでも生地を離れてさえ髪を伸ばし続けていたのは、やはり執着があったからだった。

 世界のどこかには、ありのままの私を「そこにいてもいい」と許してくれる人がきっといる。そんな自分本位で歪んだ欲が捨てきれなくて、そしてその夢想は私にとって父の形をしていた。髪を長く伸ばせば伸ばすほど、それがいつか父を手繰り寄せる縁となってくれるような、そんな気がしていたのだ。

 ただでさえ生きているか死んでいるかもわからない人だったのに、生きる世界が文字通り別たれてしまった今となっては、きっとこの執着が果たされる日は永遠に来ないのだろう。

 

 纏めた髪のひと房を手に取って、指に絡めて握る。呪われた死者の黒い血を吸って染め上げたように悍ましい色をして、毒草を摘み取る魔女の指のように曲がりくねった不気味な髪。

 

 ――こんな醜いものに願いが込められるもんか。おまえのしてることなんか、全部無駄だ。

 

 彼女は、いつか私にそう教えてくれた。本当にその通りだと思う。だけど浅ましい私は諦めきれなかった。今もなお、この未練を断ち切れずにいた。

 執着を捧げ続けたこの髪を切ってしまったら、それこそ全ての希望が失われてしまうような気がしたから。

 

「すみません、本当に馬鹿みたいで、強欲な話ですよね」

 

 だけどもう、じゅうぶんだろうに。だって今、こんなにも恵まれている。

 誰も私を見て嫌な顔をしない。誰も私を見て陰口を叩かない。誰も私に手を上げない。――私は、誰も傷付けていない。

 これ以上、いったいなにを望むことがあるのだろう。

 「醜い髪だ」と厭いながら櫛を握る矛盾にはいい加減飽き飽きしていた頃だ。こんな髪、今すぐにだって断ち切ってしまったっていいはずだ。

 そのはずなのに。

 どうしてこんなにもつらいのだろう。

 

「――――家族に会いたいと思うことの、なにが馬鹿で、なにが強欲なんだ」

 

 鮮烈だった。

 目映い光を、そのまま音にしたような声だった。

 思わず見張った目を突き抜くように真っ直ぐな躑躅色の瞳が、少しも揺らぐことなく私を見つめている。

 

「おかしなことも間違ったことも、お前はなにひとつだって望んでねぇだろ。むしろお前はなんでもかんでも遠慮しすぎだし、自分のしたいことを内に抑え込みすぎだ」

 

 どうして、そんなことを言うのだろう。

 あなたはどうして、そんなにも私を許してくれるのだろう。

 

「強欲上等だろ。誰かに遠慮したり誰かを優先したりするばかりじゃなくて、お前自身がもっと我儘になってみろよ」

 

 彼の言葉のひとつひとつが、私の胸の奥深くで固くぐしゃぐしゃになったなにかを懸命に解きほぐそうとする。それが怖くて重ねた両手で胸をぐっと押さえつけたのに、そのなにかは蕾が花弁を開いていくようにどんどんと溢れて留まることを知らない。

 

「お前の我儘ひとつ聞いてやるくらいのことが、自警団にできないと思うか?」

 

 思うはずがない。

 口にすることさえ恐れて秘め続けた私の欲望を叶えてくれたのは、いつもあなたたちだったのに。

 

「でも私……」

 

 吐き出した言葉は笑ってしまいそうなくらいに拉げて情けない。俯いた視界は、少しだけ揺らいでいる。

 

「私、今が身に余るほど幸せなのに、これ以上を望むだなんて欲深なこと、きっと叱られちゃいます」

「だァから、そういうところだって言ってんだろ」

「わぶっ」

 

 アンドラスさんは吐き捨てるように言って、片手で私の頬をぐにっと挟み込んで持ち上げた。

 

「ここにはお前を大好きな奴らが山ほどいて、そいつらみんながみんなお前に幸せになってほしいって思ってるのに、誰がお前を叱るんだよ。

 万一そんな奴がいるなら、俺が追っ払ってやる」

「あ、アンドラふひゃん……」

 

 顔を挟まれたままで呆然と名前を呟く。堪えきれずに眦から零れ落ちた涙の粒がアンドラスさんの手を叩く。と、アンドラスさんは突然まるでとびきり熱いものに触れたみたいに慌てて私から手を離した。

 

「わ、悪い。あんまりこんなふうにべたべたするもんじゃねぇよな」

 

 あまりに呆気なく離れていった手を知らず知らずのうちにじっと見てしまって、ふと気付く。思い返せば、こうして手を触れられるのも最近は久しくなかった。

 

「……我儘って、なんでもいいですか?」

 

 思い立ったら、そう口にせずにはいられなかった。私の質問に、アンドラスさんは意外そうにしながらもしっかりと頷いてくれる。自分でもこんなにも早く欲が顔を出すとは思わず、恥ずかしさに頬が熱を持つ。

 

「じゃ、じゃあ……、」

 

 ごくり。

 一瞬なんの音もしなくなった食堂に大きく響くほど喉を鳴らしたのは私だったか、アンドラスさんだったか。案外、ふたりともだったかもしれない。

 

「……今みたいに、もっと触ってもらえたらなって」

「今みたいにって――」

 

 私のお願いが余程思いも寄らぬことだったのかアンドラスさんはやや考え込む素振りを見せてから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……俺に、お前を捻り上げろって……?」

「い、いえ! そういうことじゃなくて!」

 

 アンドラスさんは愕然としてこちらを見ている。私は慌てて顔の前で手を振った。

 

「なんと言いますか、自警団の皆さんって当たり前のように私に触れてくれるというか。スキンシップって言うんでしょうか。私から手を触れても嫌な顔ひとつしないでいてくれるし……。

 そういうこと、今までになかったのですごく嬉しくて、」

 

 言葉を連ねれば連ねるほどに際限なく顔が熱くなっていく。とても厚かましいことを口走っているとは自覚しつつも、一度花開いた欲望は私に口を噤むことを許さなかった。

 

「い、いつも、もっと触ってもらえたらいいのになって」

「……もっと、触る…………」

 

 私の言葉を復唱したきり黙り込んでしまったアンドラスさんに、血の気が引いていくのを感じた。

 

「す、すみません、高望みしすぎて。やっぱり――」

「い、いや、待て。俺から我儘を言えってお前に無理言ったんだ。それが〝やっぱなし〟じゃきかねぇだろ。俺も肚を決める」

 

 もう泣きそうだった。我儘を言うにしても限度というものがあるだろうに、なにを考えていたのか。アンドラスさんは優しくて責任感があるから、望みを口にすれば無理をしてでもそれを叶えてくれようとしてしまうかもしれないという予感があったのに。

 

「あ、あの、本当にいいんです。こんなの、ただの思いつきで……。私、アンドラスさんに嫌な思いをさせたかったわけじゃなくて――」

「嫌じゃねぇ!」

 

 力強い否定に思わず息を飲む。驚きのあまり身体を震わせ硬直した私同様、アンドラスさん本人さえも自身に対してなにか戸惑いを覚えているようだった。

 

「……俺がというか、お前が……嫌じゃねぇのかよ」

「……え? ええ、もちろん、嫌だなんてこと、あるはずありません」

 

 おずおずと訊ねられる言葉に私は明瞭に答えた。

 

「むしろ、前まではアンドラスさん、私にたくさん触ってくださってたのに――、」

「た、〝たくさん触ってた〟!?」

「最近は全然、その、なにもしてくれないので……」

 

 欲張ってもいいのかしら。こんなこと、本当に言ってもいいのかしら。心に痼のようにある恐れがそれ以上の期待で染め上げられていく。

 テーブルの上に投げ出されたままの大きな手を取る度胸は、さすがに私にはなくて。伸ばした手を宙に惑わせてから、結局彼の袖を指先だけできゅっと掴んだ。

 

「さ、寂しかった……です」

「…………」

 

 振り絞ったひとことにはなにも反応がない。

 恐る恐る見ると、アンドラスさんは片手で顔を覆い隠して天を仰いでいた。

 

「どうなさったんですか、アンドラスさん……」

「過去の己のふしだらな行いを悔いてる」

「はあ……」

 

 誠実の具現化のような人なのに、果たしてそんなことがあるのだろうか。

 暫くして反省が終わったのか、アンドラスさんは改めて私に向き直った。前髪の奥に透ける日に焼けた額に汗が浮いている。

 無言のまま招く手に誘われて、私は今いる席を立ってアンドラスさんの真隣にいそいそと腰かけた。

 私が彼に膝を向けて座ると、アンドラスさんもすぐに私のほうを向いて座り直す。こうして向かい合って座っていると隣に立って並ぶよりもずっと距離が近いように感じられて、少しだけどきどきした。

 

「……よし、触るぞ」

 

 今から決闘に赴くかのような重厚な緊張を帯びた声に頷く。こんなふうに改まって意気込まれるとは思いもしなかったから、段々私まで触れたことさえない鉄鎧を着込んでいるような気分になってきた。

 アンドラスさんの視線が私の手と顔を迷うように行き来して、少ししてから人差し指で頬を柔らかにつんと刺す。

 

「――んっ」

 

 擽ったい。

 つい上げてしまった声に、アンドラスさんの手がびくっとして離れる。

 

「……ふふ、そんなに優しく触れていただけると、こそばゆいです」

「わ、悪い」

 

 今度は人差し指の腹をぴったりと頬につけられて、そのまま感触を確かめるみたいに何度かふにふにと押される。

 

「……お前、前と比べて肉がついたよな」

 

 少しだけ緊張が解れた様子のアンドラスさんは、感慨深そうにそう言った。反面、私は図星を指されたようで内心ぎくりとする。

 自分でもその実感は薄々あった。ここへ来た当初に着ていた服は以前は緩いくらいだったのに、今ではぴったりとして前ほどのゆとりがなくなってしまっていたのだ。

 

「あ、アンドラスさんのご飯が美味しくて……。すみません、無遠慮に食べすぎて」

「誰も太ったなんて言ってねぇだろうが」

 

 頬を赤らめた私にアンドラスさんは呆れ顔だ。

 

「一年前なんて骨と皮しかなかったじゃねぇか。むしろ今だって痩せすぎだし、食わなすぎだ」

「そうでしょうか……」

「そうだろ。この間、腕触ったときも思ったけどよ、…………」

「はい。……あの?」

 

 多分、この間の芋の皮剥きのことを言っているのだろう。私が包丁を持っているにも関わらずぼんやりしていたせいで、アンドラスさんに気遣っていただいてしまったことがあった。

 相槌を打つも、なぜか不自然に言葉の間が空く。

 

「い、いや……、なんでもない。それにしてもお前、本当にどこもかしこも柔らかいな。豆腐でできてるみたいな……」

 

 あまりにも大袈裟な物言いにくすくす笑う。もちろん私はそんなびっくり人間なんかではなく、アンドラスさんと同じ血肉と骨で構成された生きものだ。しかし男性からしてみればきっと女性の身体というものはなんとも柔らかく、心許ないのだろう。

 

「性別の差でしょうか?」

「そりゃあ、レラやフォルだって野郎に比べりゃ柔っこいけどよ、それでももうちょいしっかりした身体つきはしてるだろ」

 

 包み込まれるように頬に手をあてられて笑みが引っ込む。小さく肌の上を行き来する手のひらが熱い。

 

「ほら、お前なんかふにゃふにゃだ。やっぱり今度からもう少し飯の量増やすか……」

「え、ええと……。……お手柔らかにお願いします」

 

 アンドラスさんにどんな心境の変化があったのか、最近はただでさえ制止しない限りご飯を大盛りにされ続けてしまうのに、これ以上となればお腹がはち切れてしまうかもしれない。自分がものを詰め過ぎた紙袋みたいに「ぱんっ」と弾け飛ぶ姿を想像して私は震えた。このままではあり得なくもない未来図だから、笑えない。

 暫くそんなふうにして過ごすうちに髪に触れる許可を求められたから、「もちろん」と頷く。アンドラスさんが後ろで束ねた私の髪のひと房を手に取って、感心したような声を上げた。

 

「髪まで柔らかいな」

「元々髪が細くて、多分そのせいです」

 

 ここに来てからというものご飯をたくさん食べさせてもらっているからか、昔と比べれば髪にこしも艶も出てきたように思うが、それでも毎日きちんとお手入れをしてきたアンドラスさんの髪には遠く及ばない。

 

「アンドラスさんの髪はしっかりした髪質で綺麗で、素敵ですね。私はよく絡まったり、癖がついたりしちゃうから羨ましいです」

「ああ、朝のお前、たまに後ろのほうの髪とか跳ねてるもんな」

 

 何気なく放たれた言葉で心臓が奇妙に跳ねる。できる限り人前に出ても見苦しくない程度に毎朝身嗜みを整えてきたつもりではあったが、どうやら手抜かりがあったらしい。

 

「……お、教えてください、そういうときは」

「機嫌よくしてる猫の尾っぽみたいで、見てて面白いんだよな」

「もう……」

「拗ねんなよ。次からはちゃんと教える」

 

 アンドラスさんが楽しげに笑いながら、私の髪を優しく撫でる。その手つきの心地よさに目を細めていると、ふと彼がすんと鼻を鳴らす音が聞こえた。

 

「……いつも思ってたけど、お前、花の香りがするよな」

「ああ……、多分、それは、」

 

 「ヘアオイルの香りだと思います」とは言えなかった。

 アンドラスさんはそのまま私の髪を手の腹に掬い上げると、躊躇なく鼻先を埋めた。すうと上がる微かな鼻息の音ににおいを嗅がれていると気付いて、私は全身から火が噴き出るかと思った。

 

「……ん、あまい」

 

 酔い痴れているような、少しだけ舌足らずな口振り。

 

「不思議だよな。同じ人間だってのに、お前の髪も肌もこんなにふわふわして触り心地がよくて、いいにおいがして……俺のとは全然違う」

 

 アンドラスさんたち華族の人々にとって、その赤い髪は誇りなのだとも教えてもらったことがある。日々の弛まぬ手入れの賜物で、アンドラスさんの髪もレラちゃんの髪も艶々と鮮やかに美しい。ただアンドラスさんの髪はやや太く髪質自体も硬いようだから、私の細く柔な髪が殊更珍しいのかもしれない。

 手に取られた髪が取り落とされる。首筋を撫で上げる形で、アンドラスさんの大きく熱い手が私の髪の中に差し込まれていく。髪の感触を楽しむように、手指が思いの外丁寧に私の頭をなぞっていく。

 恥ずかしくて堪らなかったが、それよりも強くはしたない感情に支配されて、私は身動きひとつ取れなかった。

 もっと見てほしい。

 もっと触れてほしい。

 その大きな手の熱で、私がぐずぐずに溶けてなくなるまで撫ぜてほしい。

 まさかこんなことを口にしたはずはないと思うけれど、彼は私の願望を読み取りでもしたかのように一層身を乗り出した。

 

「……小せぇ頭だな。俺の手ですっぽり覆える」

 

 頭が、あまり強引ではない力で彼の胸元へぐっと引き寄せられる。

 その全身が燃えているかのように、顔を寄せただけでアンドラスさんの身の熱が肌に浴びせかけられてどきどきする。服に染みた油と香辛料の隙間から、アンドラスさん自身のにおいがする。こうやってすぐ近くまで身を寄せて彼の香りに包まれていると、まるで抱き締められているみたいだ。

 親指の腹で耳の裏を擦られてぞわぞわと肌がざわめく。声を上げかけて下唇をくっと噛む。アンドラスさんの少し荒れた、きめの粗い指の感触が私の粟立ってざらついた皮膚をすりすりと擦り上げる。

 激しい動悸で頸動脈がどくどく脈打っているのを、気付かれはしないだろうか。恐れなのか、恥なのか、それとももっとなにか違うものか。言い知れない感情が煮立ったように沸き起こる。

 そのうち彼の手は私のうなじにまで行き着いていた。私は彼の胸に額をあてて、ほとんど首を差し出すように俯いている。

 彼の太い親指が、私のうなじをそれまでより一番強くざらりとなぞる。

 

「――ッあ……!」

 

 ――お腹の中身全部が、浮き立つような感覚。それにとうとう堪えかねて、私は小さく声を上げてしまった。

 熟れて熱のこもった空気にびしりと亀裂が入る。アンドラスさんはびたっと動きを止めて、そしてすぐさま私の両肩を掴んで勢いよく身体を引き剥がした。

 アンドラスさんの顔は、その鮮やかな赤髪と区別がつかないほど真っ赤だった。多分、私も似たような顔色をしているのだろう。

 

「す、すみません……」

 

 震えながらも絞り出した私のひとことに、アンドラスさんが狼狽する。

 

「な、んでお前が謝ってんだ。謝んなきゃいけねぇのは俺のほうだろ。いくらなんでも、無遠慮にべたべた触りすぎた」

「でも、その……」

 

 高熱を出しているときみたいに、肌が熱くひりついている。

 

「私が、アンドラスさんに触れていただけるのが、う、嬉しくて……〝やめて〟って言えなかったんです」

 

 私の肩の上にある手がぎくっと戦慄いて、肉と骨に指がぐっと食い込む。

 私はその指に頭を凭れさせて、頬を擦り寄せた。彼の手の指の力がさらに籠って、思い出したように少し緩む。

 

「わ、私が、」

 

 口を開くたび彼の親指の背、硬い関節を唇が掠める。自身の吐息が彼の肌ですぐに跳ね返ってきているのを感じる。こんなにみっともない真似をしておきながら、恥ずかしくて彼の顔も見られない。

 

「私がもっと大人しくできれば……ま、まだ、撫でてくれますか?」

 

 空気がどろりと停滞したような気がした。凍りついたというよりかは火を入れられた鉄が今にも蕩けて流れ出す寸前かのような、そんな熱を感じた。

 

 戸口のほうからなにか言い争うような声がしたのは、そのときだった。

 俄にわあわあと騒がしくなった外に、私もアンドラスさんもまるで弾かれ合うみたいにぱっと身を離す。

 と、その瞬間に熱り立った様子のマルちゃんが玄関戸を叩き壊す勢いで中へ飛び込んできた。

 

「――貴様ら! 公共の場でなにをべたべたと引っつき合っているんだ! 不潔な奴らめ、恥を知れ!!」

 

 唾を飛ばして怒鳴り散らすマルちゃんの背後からは、レラちゃんとライムさんまでもが雪崩れ込んできている。

 

「オイオイオイオイ、空気読めよこの馬鹿犬~~! 今めっちゃいいとこだったのにさ~!」

「誰が馬鹿だ! 馬鹿って言うほうが馬鹿なんだ、この馬鹿!」

「ハイ、今俺よりもお前のほうが多く〝馬鹿〟って言ったからお前めっちゃ馬鹿~~。ざまあ~~~~」

「言わせておけば~! 貴様、打ちのめしてやる!!」

 

 レラちゃんの下敷きになりながらもマルちゃんと啀み合うライムさんはものすごく生き生きとしていて楽しそうだ。マルちゃんが泣かされてしまう前に止めに入るべきだろうかとおろおろしていると、そんな私よりもアンドラスさんが先にゆらりと席を立った。

 

「……お前ら……、どっから聞いてた……?」

 

 異様な迫力を秘めた問いに、場に静寂が訪れる。ぎゅむっと口を窄めて閉ざしたマルちゃんの隣で、ライムさんはほとんど意に介した様子もなくきょとんと目を瞬かせた。

 ひと呼吸ののちに眉にくっと力を入れたライムさんは、勇ましくも美しく微笑んで艶のある唇を開いた。

 

「――〝強欲上等だろ〟」

 

 その瞬間、アンドラスさんは目にも止まらぬ素早さでライムさんに飛びかかって、そのまま彼を表へと引き摺り出していこうとする。と、ライムさんが咄嗟にマルちゃんの首根っこを引っ掴んで、マルちゃんまで一緒にずるずると外へ連れ出されていく。

 

「おい! 放せ、ライム・リオンバルト! なんで僕まで――!」

「おっ、なんだ、この盾。口をきくぞ~」

「誰が盾だ!!」

 

 「ばたん!」と閉ざされた扉の向こうで、男性陣の怒声と悲鳴がわっと上がる。

 いつにない静けさで一連の様子を無言で見守っていたレラちゃんは、やはり黙ったままで私のほうへすすすと近寄ってきた。

 

「れ、レラちゃん?」

「…………」

 

 レラちゃんはなにも言わない。が、妙に真剣な眼差しをして私の髪や顔にぺたぺたと触れた。

 

「……ふふ、擽ったいわ。どうしたの?」

 

 目元を柔く撫でるすべすべの指が心地好くて、つい頬を擦り寄せてしまう。

 すると、彼女は息も詰まるほど強く私をぎゅうと抱き締めた。耳元に温かい息が小さくかかる。私の胸を押し上げるようにレラちゃんのもちもちした胸が押しあてられて少しどきまぎとしていると、彼女はそのまま私の耳元で囁いた。

 

「ちょっとだけ、……ヤキモチ」

 

 それで、私は遅蒔きながらもようやく気付いてはっとした。

 

「ご、ごめんなさい。レラちゃんからしてみれば、そうよね」

 

 先ほどまでのアンドラスさんとのやり取りは全て見られていたと思って間違いないだろう。つまりレラちゃんからしてみれば、仲良しのお兄さんが私に不用意にべたべたされている光景を目の当たりにしていたというわけで。

 それは、……愉快な気持ちではなかったかもしれない。

 しがみつく彼女の身体を抱き締め返すことさえできないまま手をうろうろとさせてしまう。するとレラちゃんは一層腕に力を込めてからぱっと顔を上げた。

 

「……うん、でも、もう大丈夫」

 

 間近で、華が春の訪れを歓び綻ぶように笑みが咲く。

 

「わたしが触ってもエリシャさんはちゃんと嬉しそうな顔してくれるから、ヤキモチ、どこかに飛んでっちゃった」

 

 言い放った勢いで私から身体を離したレラちゃんは、いかにも機嫌がよさそうに軽い足取りで玄関戸から出ていった。未だに絶えず続く外の騒ぎを止めに行こうというのだろう。

 

「……や、ヤキモチって、そっち…………」

 

 ひとり取り残された私は、信じられないほど熱を持った頭を抱え込んで小さく蹲ることしかできなかった。

 

――――――

こちらはSkebにてたわちゃんさん(@yamamori_sugar)にお願いした自創作キャラ夢小説です。Skebのリンクはこちら

 

素適な小説と掲載許可をいただきありがとうございました!