紅、華立ちて

ひょんなことから魔界ーラジエントへと降り立ったエリシャは、自警団で暮らし始める

――――――

 

 まるで石鹸の泡が弾けるかのように、私の意識はやおら眠りの沼から引き上げられた。

 静かに身体を起こして、蜘蛛の巣がかかったようにもやもやべたべたとした頭を覚醒させるべく、何度も目を瞬かせる。

 室内は闇色の羽毛が烟ったように暗い。

 カーテンをきっちり閉めているとはいえ薄手の生地が光を通すことがないのは、まだ朝日が昇りきっていないからだ。だけれど私のぶんも含めて三つある寝床はすでにうちのひとつが宿主を失っており、掛物を綺麗に畳まれた寝台にはすっかり人気がない。

 この空の寝床の持ち主は早起きが得意なのだ。私は起きられないこともないけど、目が覚めて暫くは頭がくらくらしてぼんやりしがちだから、彼女の朝に強い体質を羨ましく思う。

 徐に立ち上がり、閉め切られたカーテンの外側へ鼻先をそうっと潜り込ませる。

 窓の外はやはりまだ暗く、しかし透き通った青みを帯び始めた空が高く広がりつつあるのが窺える。遥か東の彼方から滲み出す暁光がちかちかと輝いている。その仄かな明るささえ暗闇に慣らされた私の瞳にはなんとも目映く、眦にじわっと涙が溜まっていくのを感じた。

 カーテンから頭を引き抜いて、今度はなんとはなしに室内を見渡してみる。

 ベッドが二台、それから一枚の敷布団が敷かれたぎゅうぎゅう詰めの〝女子部屋〟。

 ――ここへやってきたばかりの頃のことだ。頼るべきところも行く当てもなかった私はご厚意に甘えきってこちらへ転がり込ませてもらったのだが、さて寝床はどうしようかという段になったとき、当然のように真っ先に手を挙げてくれたのは今やルームメイトでもある彼女たちだった。

 結果こうして窮屈な思いをさせることになってしまい私は恐縮する一方だったが、気のいいふたりは「毎日がお泊り会みたいで楽しいね!」なんて無邪気に言うから、立場も忘れてつい吹き出してしまったっけ。

 思い出し笑いを口端に忍ばせる中、ふと視野の隅でころんと寝返りを打つ少女の姿を捉えて、私は思わずそちらへ顔を向ける。

 視線の先、ベッドの上では清潔なシーツに絡まるようにして、鈴裡族の少女――フォルちゃんがくうくうと寝息を立てていた。

 橙の髪に浅黒い肌をした夏色の彼女は、極上のベルベット地みたいな黒い猫耳をぴこぴこさせながら、髪と同じ色の尻尾をくねくね燻らせている。私がすぐ傍で動き回っているのを、眠りの淵においても鋭敏な彼女の感覚は捉えてしまったのに違いない。

 

 ――昨日も夜間の見回りをしていたみたいだし、本格的に起こしてしまったら可哀想だわ。

 

 なにか特別効果が生じるとも思えなかったけれど、少しでも音を立てぬようにと唇に指をあてて息を潜める。そうやって静かにしているうちに彼女は再び穏やかな眠りの底へと沈み込んでいったらしく、ふかふかの尾は元通り力なくぽてんとベッドに横たわった。くちゃくちゃのシーツの海でむにゃむにゃ幸せそうにまあるくなった彼女の姿は丸きり猫ちゃんみたいで、本当に愛らしい。

 ご機嫌なフォルちゃんがすっかり寝入ったのを確かめてから、私は彼女の剥き出しになって寒々しい腕を覆うようにさっきまで自分が使っていた毛織の上掛をそうっとかけてあげた。すると温もった掛物の感触をお気に召してか目蓋を閉ざしたままの彼女の口角がきゅう~っと上がっていくから、それがまた可愛くって声を抑えて笑う。

 この部屋にお邪魔させてもらったばかりの頃は私が起き上がるだけでも人の気配に敏い彼女はぱっちりと目を開けてしまっていて、それをずっと申し訳なく思っていた。「元々眠りは浅いほうだから、気にしないでよ」だなんて笑ってくれる子だったから、なおさら。

 それが今はこんなにもぐっすりで、「以前よりかはちょっとでも彼女の心の内側に入れてもらえたのかしら」なんて自惚れが胸の奥深くをじんわりと温める。

 感慨深い気持ちで少女の寝姿を存分に眼差しで愛でつつ、重怠い身体に鞭打って敷布団を畳み、手早く着替えを済ませる。そうして畳んだ布団を収納にきっちりとしまい込んでから、細心の注意を払いながら静かに部屋を出て右手にある洗面所へと向かう。

 するとそのほうにはすでに先客がいた。

 ちょうど用を終えたのか洗面所から出てきたところで鉢合せになった彼女は、私を見るなり太陽よりも眩しくにぱっと笑いかけてくれた。

 極短く切り揃えられた、華族特有のはっと目を見張るような鮮やかな紅赤の艶髪。アシンメトリーに伸ばされ編み込まれたひと房がささやかにふわんと揺れる。

 

「――エリシャさん、おはよう!」

「おはよう、レラちゃん」

 

 彼女はレラージェちゃん。あの空っぽのベッドの持ち主、私のもうひとりのルームメイトだ。

 彼女も身支度を整えている真っ最中なのだろう、寝巻代わりでもある黒い肌着に褲を合わせたラフな格好でいる。レラちゃんはとびきりの美人さんな上にスタイルが抜群にいいから、こんなふうにさっぱりとした姿でいると同性の私でもなんだか妙にどぎまぎとしてしまう。多少見慣れてきたとはいえ、彼女の無防備さ自体に慣れるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 かろうじて挨拶は返したもののまごついて視線を逸らすと、そんな私の頭上からころころ鈴を転がすような忍び笑いが降ってきた。

 

「――ふふっ。エリシャさんったら、頭の後ろ、寝癖がついてるわよ」

 

 言うが早いか、髪の中にすべすべの指が差し込まれる。そのまま二度三度と梳くように後頭部を温もりが行き来して、またするりと離れていく。寝癖を直してくれているのだろう。

 この身体に積み重ねてきた年齢で言えば彼女よりも私のほうが一応お姉さんであることには間違いないのに、これじゃちっとも年甲斐がなくって、頬と耳がぽっと熱くなる。

 

「あ……ありがとう、レラちゃん。ごめんね、お手間おかけしました」

「やだなあ、これぐらい大したことじゃないわよ。なんでもお互いさま!」

「でも、私のほうがいつもお世話になってるばかりで……。なんだか情けないわ」

「もう、相変わらず気にしいなんだから。

 ううん、それじゃあ……どうしても気になるって言うなら、今度わたしがなにかドジっちゃったときには、エリシャさんが一番に助けてくれる? それで貸し借りなし! ね?」

 

 にこにこ笑うレラちゃんはどこまでも人が好い。これ以上、あんまり卑屈なことばかり言っても困らせるだけだろう。私は再びの「でも」を継ごうとする口を一旦噤んでから、唇の端と端をきゅっと上げた。

 

「それならさっそく、ちょっとだけお返し」

「へ?」

 

 きょとんと瞬く彼女の鼻の頭に手を伸ばして、人差し指でそっと拭う。ぱちぱち羽撃く睫毛の上に乗っかった、顔を洗った際に拭いきれなかったのだろう水滴がきらきらちかちかしている。

 

「――可愛いお鼻に、泡が残ってるよ」

「あ、……てへ」

 

 指の腹にふわっと乗った泡を見せると、レラちゃんははにかんだ。ぺろっと舌を出して照れ笑う姿がこんなに可愛い子は、きっと他にいない。

 

 女子部屋へと戻っていくレラちゃんの背を見送ってから、入れ替わるように私も顔を洗うため洗面所のドアを開けた。

 戸口の真正面に設置された鏡の中ではいつものように、不健康に肌が青褪めて毒々しく赤い髪をした女が私をじいっと見返してくる。それが変に居た堪れなくてへらりと中途半端に笑うと、その女も私を見て同じく諂うように卑しく笑う。

 産まれてこのかた二十一年、それからここへやってきてからの一年、合わせて二十二年もの年月を付き合ってきた自身の容姿は、未だに愛着があまり持てないままでいる。

 前髪を指先で捩って、今度は明確に苦い笑みが零れた。

 故郷で忌まれた髪を、それでも断ち切ることも隠すこともせずに生きてきたのは自身の選択の上だったけれど、せめてこの赤髪があの子のように美しい色をしていたなら少しは自分を好きになれていたのかもしれない、だなんて。

 最近とんと浮かぶことが減っていたはずの無意味な思考を洗い流すように、私は顔面に勢いよく冷水を浴びせかけた。睡魔を宿した熱の残る肌に、しゃきっと冷たい水が心地よかった。

 

 

 顔を洗い、髪を結い纏めたところでちょうど玄関先のほうから蝶番のぎいっと軋む音がした気がして、私はつと動きを止めた。

 少しだけ考えてから洗面所に何枚かある備え付けのタオルを一枚濡らして固く搾り、それを持って外に出る。そのまま廊下を抜けて戸口へと向かえばやはりそこには想像した通りの人物がいて、ちょっぴり嬉しくなった私はその上向いた気持ちの勢いのままに声をかけた。

 

「おはよう、マルちゃん。今日も走り込みに行ってたの? 偉いね」

 

 ぜえぜえと濁った呼吸を繰り返していた狗族の青年は、私がいることに気付くと姿勢よく背筋を反り上げて薄い胸をぐっと張ってみせた。整わないままの荒い呼吸のせいで小鼻が定期的に膨らんだり萎んだりしているのがちょっと可笑しい。

 

「ふんっ、こ、これしきのこと……、軍人の家系に生まれついたからには、当然だっ」

 

 「当然」とは言いつつも、ふんふん荒く鼻息を吹かす彼の頭の上に生え揃った白くて大きな犬耳は嬉しげにぴんとそそり立っているし、背後では長い尻尾がぶおんぶおんと激しく左右に振れている。

 

「そういうお前はいつまでも豚のようにぐうたらと引きこもってばかりいて。そうも湿っぽくしていては、そのうち黴が生えてくるぞ」

「そうね、気を付けておかないと」

 

 この子の毒舌はほとんど鳴き声みたいなものだから、それなりに聞き流していてもなんら問題はない。

 お説教に適度に相槌を打ちながらタオルを差し出すと「お前にしては気が利くな」なんてひと言と共に受け取ってくれる。ひんやり冷えたタオルを動脈のあたりに添えて気持ちよさそうに目を細めているところを見る限り、憎まれ口を叩きながらも随分と気をよくしてくれたのは間違いないだろう。

 こんなことを考えているのがバレたら彼にはきっと嫌がられてしまうだろうけれど、素直じゃない子供が威勢を張って偉ぶっているみたいで可愛い。

 

「そうだよねえ。駄目ね、私。マルちゃんみたいに、もっと元気いっぱいに頑張らなくっちゃ」

「そうだな、少しは僕を見習って高貴に優雅に、そして勇ましく生きるべきだ」

「うん、少しでもマルちゃんに近付けるように、精進するわね」

「お前のようにのうのうと生きてきた一般人ごときには土台無理な話だろうが、まあ、その心意気だけは買ってやろう。せいぜい励めよ」

 

 反り返らせたマルちゃんの胸は、彼のよく回る舌が一周二周とぺらんぺらんするごとにどんどん誇らしげに角度を増していく。今にも引っ繰り返ってしまいそうだ。そのふんぞり返ってろくに前も見えていなさそうな姿勢のままで、彼は微温くなったタオルを私のほうへ器用に突き返してくる。

 正直彼の振りきった不敵さが楽しい私は特に抵抗もなく召使さながらにタオルを受け取ろうとしたのだが、それよりも先に横から伸びてきた手があった。

 

「――偉そうに、なあにご高説垂れてやがる」

「わぶっ!」

 

 日に焼けた大きな手がマルちゃんの白い手からタオルを引っ手繰って、彼の顔面に「ぺちゃ!」と叩きつける。

 

「自分で使ったもんだろうが。人任せにしてないで、自分で片付けろ」

 

 すぐ傍で放たれる張りのある声に、心臓が奇妙に跳ねる。

 むぐもが言いながらタオルを取り払ったマルちゃんは、怒りで鼻っ面を赤くしながら顎をくっと上向けて目を三角にした。

 

「――僕は頼みもしてないのにエリシャが勝手に持ってきたんだぞ! 片付けるなら、エリシャが片付けるべきだろう! この僕に雑用をしろと言うのか! この、僕に!!」

 

 マルちゃんが吠えるのをよそに、私が見上げているのに気付いたらしい彼は首を俯けてこちらを見る。

 レラちゃんと同じ、色鮮やかな赤い髪。清潔に短く整えられた前髪の隙間から覗く赤い眉がくいと上がって、ぼんやりする私を不思議そうに見下ろす。

 彼こそがレラちゃんのお兄さんであり、私をここに受け入れてくれた人――アンドラスさんだ。

 

「おう、おはようさん」

 

 彼の言葉に挨拶もなく不躾にまじまじ見つめてしまっていたことに気付いて、私も倣って慌てて口を開く。

 

「おはようございます、アンドラスさん」

「おい、聞け!」

 

 そんなつもりはなかったけれど、ついついふたりして無視する形になってしまったマルちゃんはいよいよご立腹だ。

 反射的に謝ろうとした私を遮って、アンドラスさんはぴしゃっと撥ねつけるような調子で言う。

 

「――なるほど、今日の朝飯はいらねぇってことか?」

「ぐっ、う、うう……!」

 

 すると、途端にマルちゃんはまるで無理に縫い合わせられでもしてしまったみたいに唇をしわくちゃにした。悔しげに歯噛みしながら、それでも台所を預かる人間に逆らう愚行に踏み切れない彼は地団太を踏んでぐうぐう唸っている。

 

「……うう~~っ、か、片付けてやるさ、片付けてやるとも、これくらい! 決してお前に屈したわけじゃないぞ、アンドラス! 調子に乗るなよ!」

 

 床を踏み均すように大袈裟な足音を立てて去っていくマルちゃんの背を眺めながら、アンドラスさんは呆れ返って大息する。そうしたあとですぐさまこちらへ向き直ると緩く握った拳で私の額をちょんと小突いた。頭が揺れることもない、存分に加減された力で。

 

「エリシャ、お前もマルコをあんまりつけあがらせるんじゃねぇ」

「すみません……。マルちゃんったら一生懸命だから、なんだか言うこと聞いてあげたくなっちゃって」

「お前があいつを気に入ってんのは結構だがよ、甘くするばかりが可愛がるってことじゃねぇだろうが」

「お、仰る通りです……」

 

 思わずしゅんと項垂れる。すると吐息を溢すような含笑と共に大きな手のひらが降ってきて、私の髪をくしゃっとひと混ぜした。地肌にほんの一瞬触れた手の熱に、レラちゃんに寝癖を直してもらっていてよかったなんてちょっとズレた感想が浮かぶ。

 縮こまらせた首を伸ばしてアンドラスさんを仰ぎ見ると、彼もまた私を見ていた。

 ぴんと目尻の吊り上がった強面のせいか、為人をよく知らない人からは怖がられてしまうこともあるアンドラスさんは、だけどひとたび微笑むと眦が緩やかに下がって、驚くほどに温かみのある面差しになる。

 

「いつも通り、朝飯のあとで昼の仕込みの手伝い、頼めるか?」

「――は、はいっ、任せてください!」

「おう、助かる。じゃ、ひとまずは飯食って、しっかり目ェ覚ましとけ」

 

 台所での務めを一手に引き受けるアンドラスさんの隣で、及ばずながらも昼夜の調理のお手伝いをすること。また、お洗濯やお掃除などの家事をこなすこと。それがここへやってきてから与えられることとなった、私の日々の仕事だ。

 本当は朝ご飯の準備のお手伝いもできたらいいのだが、どうしても起き抜けはふらふらとしてしまってかえってアンドラスさんの手を煩わせてしまうから、諦めた。

 これでもここ最近は随分と早起きができるようにはなったのだけれど、一昼夜を暇なく動き回ってそれでも翌日にはぴしっと目を覚ましているようなアンドラスさんやレラちゃんにはまだまだ遠く及ばない。

 

 せめて配膳くらいはお手伝いをさせていただこうと、くるっと背を向けたアンドラスさんの後ろについて私も台所へ向かう。

 元々食事処として機能していたというこの家の台所は中々立派に設備が整っている。よく使い込まれていて、それでいてきちんとした清潔感もある。

 ただどうしても壁に染みついた油のにおいは取り切れなかったみたいで、ここで作業をしていると時たまそのにおいが鼻をつく。これのせいで、私は油のにおいを嗅ぐと脳裏にちらとアンドラスさんの顔が過るようになってしまった。

 アンドラスさんの背中越し、煤と油が混じり合った強固な汚れがつく壁際に設置された調理台の上では、こっくりとした照りを持つつけダレが添えられた山積みの饅頭、それと玉子のスープがほこほこと湯気を立てている。

 それがあんまりいいにおいを漂わせるものだから、つい私のお腹は「くきゅっ」と潰れた蛙みたいな鳴き声を上げた。

 慌てて自分のお腹を見下ろしてまた顔を上げると、アンドラスさんは依然としてこちらに背中を向けたままでお皿の準備をしている。一瞬気付かれなかったのだと安心して糠喜びしかけたけど、肩が小刻みに震えているからきっと聞こえていたのだろう。彼の身体の震えに合わせて一緒にふるふる踊る、背中に垂らされた長い三つ編みもやけに楽しげだ。

 理不尽にも文句をつけたい気持ちはありつつも、わざわざ改めてお腹が鳴ってしまったことを口にして知らせるようなものだから恥が勝って上手く言葉が出てこない。考えあぐねて、結局無言で彼の背中に指を一本ぶすりと突き刺すと、とうとう弾けるような笑い声がからから上がった。

 思えばこんなに食欲が旺盛になって朝からでもきちんとご飯が食べられるようになったのも、ここに来てからのことだ。これは絶対にアンドラスさんのせい――というか、おかげなのに、それを笑うだなんて意地悪だわ。

 

「……スープ、よそいますね」

「っく、ははは……、ああ、頼む」

「もうっ、いつまで笑ってるんですか!」

 

 お皿とお玉を手に持つ傍ら、私はアンドラスさんの笑壺から逃げたくて、意味もなくまだ薄暈けたように仄暗くも白みつつある空を横目で窓から覗き見た。

 

 ここの空は、かつていたふるさとの地から仰いだものとはやはりどこか風合が違う。じっと眺めていると稀代な空気感に胸がいやにざわついて、肺がひりついてさえくるようだ。一過の恥もすぐに鳴りを潜める。

 

 ……〝空気感が違う〟だなんて、言ってしまえば当然の話。

 今の私が身を置くのは、特別自由自治区ラジエントが主要都市セゼンリースに在る自警団。

 

 私は、一年前に地上で魔孔に飲み込まれてこの魔界へとやってきた――異邦人なのだから。

 

 

 故郷のことながらここへ来て初めて知った事実だが、地上では時折魔孔と呼ばれる時空の裂け目が開き、そこで生きる者たちが魔界に迷い込んでしまうことがあるのだという。斯く言う私も、そうやって思いがけずこの地へと降り立った。

 

 魔孔は、例えるとするならば潮流だった。

 恐ろしい怪物が昏き底で大きな口を開けて、腹を満たすべく世の全てを飲み込まんとして引き起こした渦だった。

 息苦しさに藻掻き続けて、気付いたときには私はすでに故国ヘルマニヨンの片隅にある森から、鬱蒼と茂る見知らぬ森の中にいた。

 故郷の森から異境の森へと転移してすぐにそこが「自分の知らない土地だ」と気付けたのは、周囲に生い茂る樹々や草花が明らかに見慣れないものばかりだったからというのもあるけれど、一番は満身を包む独特の雰囲気のためだった。うまく言葉にはできない違和感が、はっきりと私をこの地における異物たらしめていた。

 わけもわからず呆然としていた私が無事セゼンリースに辿り着くことができたのは、運がよかったからとしか言いようがない。偶然辺りを哨戒していた竜字軍の方々と行き合わせて、保護してもらったのだ。

 彼らは〝異邦人〟の扱いに慣れていて、右も左もわからない私に大層親切にしてくれた。面々はいかにも軍人らしい気質をしていて少し豪快すぎるようなところもあったのだが、そんな中でライムさんという方はいっそ彼らに馴染まないほど紳士的で、なにくれとなく気を回してくれた。

 私が自警団に身を寄せる切っ掛けをくれたのも彼だ。なんでも、自警団の団長として武具と鉄鍋を振るうアンドラスさんが以前から「料理のできる人手がほしい」とぼやいていたのを耳にしていたのだという。

 「ここで雇ってやるのはどうか」というライムさんの提案の尻馬に乗って、「なんでもする」と平伏した私の頭を上げさせたアンドラスさんは、顔を顰めていた。

 

「女が、素性の知れない男相手に『なんでもする』なんて、そう易々と口にするもんじゃねぇ」

 

 当時は初対面にも関わらずこんなことを言い出す私の厚かましさを嫌ってあんな顔をさせてしまったのかと、思い違いをしていた。だけど今ならわかる。彼はあのとき、少しだけ困っていたのだと。

 ライムさんに連れられた私が自警団の戸を叩いた時点で、きっと彼の中に私の手を振り払うという選択肢はなかったのだろうと思う。

 

 

「――おい、刃物扱ってるときは、ぼうっとすんな」

 

 ――手首を固めるように握られて、私は急激に過去から立ち返った。

 目を上げると、アンドラスさんは特に厳しくも和やかでもない表情で私を見ている。

 

「す、すみません」

 

 自警団はセゼンリース中から便利屋と定食屋のいいとこどりのような認識をされているから、昼夜のご飯時にはちょっと驚くほど人が訪れる。今はそんな彼らに振る舞う食事の下拵えをしているところだった。

 私が我に返ったことを悟ったアンドラスさんの、大量の芋の皮剥きのせいで少し白っぽくざらついた手が肌から離れる。かと思えば、私の手のうちから剥きかけの芋を取り上げていった。

 

「疲れたか? もうこれで一段落するし、ひと足先に休憩しとけよ」

「……それでは、お言葉に甘えて。ありがとうございます」

「おう」

 

 彼はなにかと私の疲労を私よりも労わってくれる人だ。ここで口答えをしても問答無用で休みを取らされることになるというのは、この一年ですっかり理解させられていた。

 だから私は彼の優しさを素直にありがたく受け取ることにして、ふたりぶんのお茶を淹れて台所を出た。台所とそのすぐ側の食堂には間仕切りもないから、両手が塞がっていても難なく通り抜けられる。

 

 食事時には常連さんで埋め尽くされる空間は、当然ながら今はがらんとしている。

 ふたつあるテーブルのうちひとつに腰を落ち着けてのんびりしているうち、アンドラスさんもすぐに顔を出して私の真向かいに腰を下ろした。

 それと同時になにか当然のことのように、ひとつの小さな袋包みが私の前にころんと置かれる。目の前に置かれたきり、特に広げられるでもなくそのままにされているから、向かいの彼の様子を窺いつつも恐る恐る指で袋の中身の感触を確かめた。

 

「これは……クッキー、ですか?」

 

 その厚みのある丸型と少し硬い手触りに見当をつけて訊ねると、アンドラスさんはお茶を啜りつつ首肯した。

 

「お前のぶんしかねぇんだ。他の奴らにバレねぇうちに、とっとと食うかしまうかしとけ。日保ちはするように作ってある」

「えっ。それは……お手間をかけてしまったんじゃないでしょうか」

 

 ひとり森で暮らしていた頃には思いも寄らなかったことだが、大勢を饗するための調理に慣れてくると、かえってたったひとりぶんの食事を作るのが手間と感じるようになる。私でさえそう思うのだから、アンドラスさんにとってはなおさらのことではないかと思う。

 嬉しさと申し訳なさとが変な具合にまぜこぜになって微妙な顔つきになってしまった私に、彼はなんでもないことのように言う。

 

「気にすんな。祝いごとは手間かけるもんだろ」

「〝祝いごと〟、とは?」

 

 なにかこの町で私の知らないお祭りごとやお祝いごとがあるのだろうか。私の疑問にアンドラスさんは続けた。

 

「ここに来て、ちょうど一年だろ?」

 

 袋を擦る指が、思いがけない言葉にぴたりと止まった。

 

「お前にとっちゃ魔孔に巻き込まれたのは災難だったかもしれねぇが、うちとしちゃだいぶ助けられてるからな。その礼も兼ねて、ってとこだ。

 ……どうした?」

「……あ、い、いえ、その……」

 

 本当に、本当に思わぬ言葉を当たり前みたいに受け渡されたとき、人はこんなにも深い混乱に陥るものなのかと思った。

 

「こういうお祝いごとというのは、自分には無縁のことだと思っていたので……なんだか驚いてしまって。……あっ、う、嬉しくないというわけではないんですが!」

「これから茶飯事になるんだ。慣れてもらわねぇと困るな」

 

 「困る」と言いつつも、アンドラスさんは愉快そうに目を細めている。

 

「ありがとう、ございます」

「どういたしまして」

「なんというか、胸が……どきどきしてます。それぐらい、本当に嬉しいです、とっても」

「あ~……、マ、なんだ。喜んでもらえたんなら、なによりだ」

 

 ばくばくと暴れる心臓の鼓動が私の思考も紡ぐ声もしっちゃかめっちゃかにして、全部をふわふわにする。なにもかもがあやふやな中で、ただなんとも筆舌し難い欣びがあることだけは理解していた。

 この情動をぴったり表す言葉は私のうちにはない。「それでも」と拙く何度も感謝を連ねれば、アンドラスさんは私から視線を逸らし気味に、自身の後ろ頭をがしがし掻いた。目元がほんのり照れ臭げに染まっている。

 

「……こうやって誰かにお祝いしてもらうの、憧れてたんです」

 

 胸に湧き上がった過去の憧憬を、なんとはなしに溢す。アンドラスさんは茶杯に口をつけたまま、言葉もなく目線だけで私の話の続きを促した。

 

「くだらない話なんですけど……誰かと一緒に家まで帰ったりとか、〝ただいま〟、〝おかえり〟って言い合ったりとか……いつかしてみたいなって思ってたことがたくさんあって、」

 

 高望みをするべきではない。

 そう己を戒めれば戒めるほど、無性に渇求してやまなかった。それは飢えとか渇きとか、生物が原初から持つ生への欲求にも近しいもののようにも思えた。

 求めてはならないし、求めたとして与えられるものだとも思っていなかった。その資格がないものだと噛みわけていた。

 ――私が、見るに堪えない赤い髪をしているから。

 閉じ込めるようにクッキーを両手の中に包み込む。手の腹の中で包みがくしゃりと乾いた音で鳴いた。

 

「私……ここに来る前まではひとりで暮らしてたんです。だからか多分、そういう願望が人一倍強くあって……お話したこと、ありましたっけ」

「……いや、初めて聞くな」

 

 茶杯をテーブルに着地させたアンドラスさんは記憶を探るように視線を宙へ飛ばして、少しもしないうち首を横に振った。

 

 血縁のある人という意味で言うなら、正確には身寄りがなかったわけではない。ただ家族と呼んでも認めてもらえる人たちがいなかったというだけ。

 父は身重の母を置いて行方を眩ませ、母は心を病み私を産んですぐに亡くなってしまったという。そんな経緯があったから、母方の祖父母は母に似ても似つかぬ赤髪をした私を疎ましがった。

 身のほど知らずにも繋いでもらおうとした手を叩き落とされたのがひとつの気付きだった。赤い髪を短く切り刻んでも嫌な顔をされるだけで受け入れられることはないのだと知ってからは、私は彼らに多くを求めて困らせたり苦しめたりするのをやめた。

 そうして髪を伸ばし始めた。未練がましくなおも捨てきれずにいた、ほとんど尽きかけているような一縷の望みにかけて。

 祖父母のいた村では珍かなこの赤髪が顔も人柄も見知らぬ父と私を繋ぐ糸口になってくれるのではないかなんて、随分甘えた妄想だ。だけどそればかりが、かつての私に唯一残された小さな希望だった。

 

 ――過去の話だ。今は違う。

 

 ここに来て、私は初めて誰かと一緒に温かな家へ帰ることができた。初めて「ただいま」と「おかえり」を口にした。その言葉を、身に受けた。

 アンドラスさんが、私を自警団に受け入れてくれたから。

 

「自警団に来てから、そういう私の憧れがみんな叶っていくようで、なんだか夢を見ているみたいです」

 

 空想の中に思い描き続けた儚い父の横顔よりも、今ここで私に心を砕いてくれる彼らの優しさの、なんとあまやかなことか。

 

「いずれ、もしも私も家族を持つことが許されるなら、皆さんのような人たちが、」

 

 ――違う。〝ような〟じゃない。

 瞬時に頭に浮かび上がった言葉に内心で頷いて認める。

 代わりなんてどこにもありはしない。私をこの温かな輪の中に迎えてくれた彼らこそ、私は愛おしくて堪らない。

 

「――ううん、我が儘だけど皆さんが私の家族だったらなって、思ったりもして、」

 

 彼らこそが私の〝家族〟なのだと、口にしたいのだ。

 

 それが真実、私の本心だった。――だけど、こんなことを言ってしまうべきではなかったと思い至ったのはそのすぐ後だ。

 込み上げた万感のままに転び出た本音を押し戻すように唇に手を当てても、吐いた音は帰らない。

 

「す、すみません! 私、調子づいて妙なことをべらべらと……! わ、忘れてください!」

 

 「一年ぽっちの付き合いしかない女が、なにを急に図々しいことを」と煩わしがられても全く文句は言えない。青くなって俯いた私の頭の天辺に向かって、アンドラスさんはただの雑談を続けるようないつもの調子でさらりと言った。

 

「それなら、地上に帰ったら一緒に暮らすか?」

「え、ええ!?」

 

 私にとってなにか物凄く都合のよすぎる発言が耳に飛び込んできたような気がして、一瞬で頭が真っ白になる。しかし沸騰しかけた頭は直後に冷めて冷静になった。

 そういえばアンドラスさんやレラちゃん、その他華族の人々もまた私と同様地上の出身なのだと聞かせてもらったことがある。いずれは地上へ帰り、一族の村を再興するつもりなのだとも。アンドラスさんは「行く当てがないなら、その村に一緒に住んではどうか」と誘ってくれているのだろう。

 天まで飛び立つほど浮ついた心はすぐにちょっぴり萎んで、そうしてから「あら?」と思う。

 いったい自分がなににここまで喜んで、なにをこれほどまで残念に思っているのかがわからなかった。こうしてお誘いをかけてもらえたこと自体がとても嬉しく光栄なことであるはずなのに。

 

「で、でも急に部外者の私がお邪魔しては……ご迷惑じゃありませんか?」

「まだ一年とはいえ、これだけ一緒にやってきたってのに、まだ部外者面してんのか。もう家族みたいなもんだろ。俺としても働き者のお前が傍にいてくれんのは助かるしな」

 

 その言葉に、またしても心臓がはしゃいで騒ぎ出す。鏡を見るまでもなく染まりつつある頬を自覚して、私は両手で顔を抑えた。気を抜けば、にまにまと緩んでしまいそうになる口元を押さえつけたかったというのもある。

 

「……、もしもそのお言葉を本気にしてもいいなら……すごく、すごく嬉しいです」

「冗談じゃ言わねぇよ、こんなこと」

 

 結局どうにも堪えきれなかった笑みを湛えながら、なんとかそれだけ絞り出す。アンドラスさんの呆れたような、甘やかすような小さな笑い声が耳にこそばゆい。

 束の間、私たちの間に沈黙が訪れる。どちらもなにも言わない。ただ優しく静かな時間が一秒、二秒とゆっくり立ち去っていく。

 瞬間、その静寂を割り裂くように小さな物音が響いて、私たちは揃って顔を音の出どころへと向ける。

 と、そこにはレラちゃんがいた。感激を握って抑え込むみたいに両手の指を組み合わせながら喜色満面に目をきらきらさせた彼女は、食堂にも入らずなぜか影に隠れるようにして廊下に佇んでいる。

 彼女が私たちの視線に気付いたかどうかは定かではない。私たちが座ったままで身体の向きを変えてレラちゃんを見つけたのとほとんど同時ぐらいに、彼女は声をかける隙もなく玄関戸を弾くように開け放って走り去っていってしまったからだ。

 小躍りせんばかりに機嫌のよさそうな足音が、軽やかにぐんぐん遠ざかっていく。

 

「……レラのやつ、どうしたんだ?」

「さあ……」

 

 私たちは思わず顔を見合わせた。

 

 

 町の大通り――アンフェ通りを往きながら日が傾きかけた赤い空を見上げ、少しだけ詰まっていた息をふっと吐き出す。

 

「なんだか、随分時間がかかっちゃった」

 

 呟いて、奥底に木貨をしまい込んだ鞄をしっかりと抱え直す。

 セゼンリースは市民保護の制度が整っているのだが、とりわけ魔孔から迷い込んだ者に対する手当は厚い。申請手続きを済ませた上で定期的に役所に訪れさえすれば、〝生活支援〟という形で僅かばかりながらも支援金や物資が受け取れるのだ。

 私はちょうどその支援金を受け取ってきたところで、今は自警団への帰路を辿っているのだった。

 余談だが、受付窓口によっては支援の一環として当座の住居の手配や仕事の斡旋などもしてくれるらしく、通常私のような移民は役所の手を借りながら生計を立てていくものなのだという。とんとん拍子に自警団への住み込みが決まった私は、つくづく運がよかったらしい。

 

 ――閑話休題。

 私の役所への出頭は月に一度と決まっていた。今日も今日とて自警団のみんなは出不精の私を気遣って「せっかく外に出るのだから存分に寄り道をしてこい」とは言ってくれているし、日々の仕事もこの日ばかりは免除してもらっているものの、結局自警団で過ごしている時間が一番落ち着ける私に道を逸れる心積もりはない。

 だというのに今日はやけに役所内が混み合っていて、簡単な近況報告をして木貨を受け取るというだけのことで、かなり時間を食ってしまった。

 少し足を急がせながら真っ直ぐ歩き続けて、通りの半ばあたりまで差し掛かった頃。ふと見知った人物の後ろ姿を見つけて、私は速歩に彼に近付いていった。

 

「――大工のおじさま、こんにちは」

 

 肉体労働の賜物か、筋肉太りして大きく丸っこい背中を左右に揺らしてよたよた歩いていたのは、自警団によくご飯を食べにくる気のいい大工のおじさんだ。初めて会ったときに距離感をはかりかねて「おじさま」と呼び掛けてしまったのを甚く気に入られて、以降とてもよくしてもらっている。

 私の呼び掛けにいつものようにてれてれと応えてくれると思ったのに、彼はボールをつけたみたいに丸く分厚い肩を「びょこん!」と跳ねさせてから勢いよくこちらへ振り向いた。妙に鬼気迫る勢いに、声をかけたこちらがぎくっとする。

 

「えっと……、こんにちは」

「こ、コンチワ……」

 

 改めて口にした挨拶に返る声は異様に小さい。いつもはびっくりするほど元気な人なのに、具合が悪いのだろうか。

 

「……、いつものおふたりはご一緒じゃないんですね?」

「ウン……」

 

 大工のおじさまには仲良しのお友達がふたりいて、彼らは三人揃って自警団の常連なのだ。だが、いつも連れ立って一緒にいるふたりの姿はない。おじさまが変にしょげ返ったようなのを見るに、もしかして喧嘩でもしてしまったのだろうか。

 

「今日も自警団にいらしてくださるんですか?」

 

 あまり触れるのもよくないだろうと軽く流して、おじさまの遠く上にある顔を見上げる。すると日の焼けた顔にぽてぽてとついた太短い眉の下、ころっと円らな両目が突然潤み出して、大粒の雨のような涙が次から次へと溢れ出した。

 思わずぎょっとして、眦が裂けるほど目を見張る。

 

「う、ウオォ……エリシャちゃん……」

「え!? ど、どうなさったんですか!?」

「あ、あ、アンドラス……婚約……うおぉん……」

「ええっ!? あ、アンドラスさん、ご婚約なさるんですか!?」

「あだ~ッ!」

「あっ、やだ、ごめんなさい! 叩いちゃった!」

 

 慌てて腕をいっぱいいっぱい伸ばして丸い背中を擦ってあげている最中に飛び出した衝撃の発言。そのあまりの驚きにうっかり手元が狂って、私は思いきりおじさまの肉厚のお尻を引っ叩いてしまった。

 再度宥め賺しつつ問い質すも大工のおじさまはおんおん泣くばかりで、もうまともに口をきくこともできないでいる。

 とうとうその後もろくろく事情を聞き出すこともできないまま、おじさまは踵を返してどすどす走り去っていってしまった。方角的に、恐らく自警団へ向かっていったような気がする。

 

 ひとり残された私はというと、呆然としていた。

 その次に説明のつかない不安感がわっと胸に押し寄せた。そして「アンドラスさんが婚約する」という事実を知って明瞭に「嫌だ」と思ってしまった自分に、愕然とした。

 アンドラスさんみたいにお年頃もほど好く素敵な男性にお相手がいないほうが不思議なくらいで、婚約話が持ち上がるのはそう不自然なことじゃない。顔がちょっぴり怖いだとか言葉つきが少しだけ荒々しいとか、そんなものは本当に些末な問題で、アンドラスさんの人柄を知りさえすれば誰だって彼の人としての素晴らしさに気付いてしまうに違いない。

 だけど私は、いつか来るその未来の可能性を考えもしなかった。いや、思い浮かべることさえ厭っていた。

 

「……どうしよう、私――」

 

 天から降る西日はどんどん傾いて、辺りが闇に融け消えていく。そんな中で家々から漏れ出す明かりや店の軒先に吊るされた角灯が、まるで恐ろしい怪物の眼差しのように思える。すぐ足元にまで侵食する暗闇に怖気づいて爪先で地面を削っても、もうその爪痕さえ見えはしない。

 この期に及んで、こんなことには気付きたくなかった。気付かないなら気付かないまま、いつか死んでいく想いでよかった。

 

 それなのに。

 

「……どうしよう」

 

 気付いてしまった。

 いつからか胸に芽吹いていた感情を、突然目の当たりにしてしまった。

 

 ――私は、アンドラスさんのことが。

 

「――なにが〝どうしよう〟って?」

 

 ――調理油と五香粉の、香ばしい薫り。

 

「……わああっ?」

 

 俯いた視界に今まさに考えていた人の顔が前触れなく割り込んできて、思考が止まる。そうして一拍遅れて、私はさっきのおじさまのようにびょんと飛び上がった。思わず後ろへ引っ繰り返りかけた私を、アンドラスさんが手を掴んで繋ぎ止めてくれる。

 

「……あ、アンドラスさん!」

「おう。……なんかあったのか?」

「い、いえ、なにも!」

 

 まさか結婚を控えている男性にこんな気持ちを打ち明けられるわけもなく、私は慌てて首を振る。やや納得のいかなさそうに目を眇めつつもアンドラスさんはそれで誤魔化される気になってくれたらしく、「ならいいけどよ」と小さくぼやいた。

 そのままなんとなく一緒に並んで帰り道を辿り始めてしまい、私は彼を上目遣いに見上げて訊く。

 

「ところでアンドラスさん、ご一緒していただいちゃってますけれど……いいんですか? なにか用があって、外に出ていたんじゃ?」

「ん? ああ、まあ……」

 

 どことなく歯切れの悪い返事だ。そうしてから彼は私を見つめ、ふっと視線を外した。

 

「もう済んだからな」

「そうですか。それならいいんですが……」

 

 隣を往く彼の服から、また油と調味料のにおいが漂い鼻を掠める。調理場に立つことの多い彼からこの手の香りがすることは珍しくないのだが、いつもよりもどことなくその香りが強い。かなり忙しくしていたのだろうか。

 

「帰りが遅くなってしまって、すみません。仕込みのお手伝いもろくにできなくて……。もしかしたら今日、お忙しかったんじゃないですか?」

「ああ、まあな。でもお前には元から今日は休みにしていいって言ってあっただろ、気にすんな」

「でも、その……私がお手伝いしたかったので……」

「心配しないでも、また明日からきっちり扱き使ってやるよ」

「ええ、ぜひ使ってやってください」

「相変わらず、脅し甲斐のねぇ奴だな」

「すみません」

 

 じゃれあうような応酬は途切れて、ぱたと会話が止まる。急に空気がしんと冷えて肌寒いような気がしてくる。

 暗くなり始めてもまだ通りはいくらかの人々で賑わっており、密やかな海鳴りのような音声がさやさやと周囲を取り巻いている。それが余計に私たちの間の沈黙を際立たせた。

 こんなところで黙々と歩いていては悪目立ちをするのではと妙に気が気でなく、私は必死に話題を探す。もう通りの終わりにも差し掛かって、角を曲がればすぐそこは自警団だというのに、とにかくこの静けさが堪え難かった。

 だけどどんなに頭の中を引っ繰り返しても浮かび上がるのはアンドラスさんの婚約のこと一色で。どうしようもなくなった私は、酷く負った自分の火傷にわざと手を触れさせるような気持ちで口を開いた。

 

「そ、そうだ。話は変わりますけど……アンドラスさん、ご婚約、おめでとうございます」

「……ああ?」

 

 本当にいきなりこんな話題を持ち掛けたからか、アンドラスさんは素っ頓狂な声を上げた。努めて前だけを見る私の横顔に彼の強烈な視線が突き刺さるのを感じる。

 

「私、こんな大事な話を今の今まで全然知らなくって……」

 

 自分から話を持ち出しておいて、言葉を尽くせば尽くすほど喉がぐっと詰まるし胸は軋んで痛い。もうなにが言いたいのかもよくわからなくて舌が絡まりそうだった。

 

「本当に、ついさっき知ったばかりなんです。だから、なんにも用意がなくって……。きちんとしたお祝いは、また改めてさせてください」

「おい、なんの話――」

 

 自警団前にようやく辿り着く。一枚の扉が救いへの道に見えて仕方がなかった。ほとんど言い捨てるみたいに話を切り上げて、私は思いきりノブを引いて中に足を踏み入れる。

 実に朗々とした一声が響いたのは、そのときだった。

 

「――おにいちゃん! エリシャさん!」

 

 はっと驚きに目を見開いた私の眼前で何重もの破裂音と共に舞い上がった紙吹雪やリボンが淡く揺らめき、視界いっぱいに色とりどりの花を咲かせる。

 中身を全て吐き出したクラッカーを手に持ったレラちゃんは呆気に取られる私に輝く笑顔で言った。

 

「婚約、おめでと~~!」

 

 彼女の言葉を皮切りに、豪勢なご馳走がずらりと並んでそこら中飾りつけられた食堂内に犇き合う、自警団の他のみんなや常連さんたちも異口同音に声を張り上げる。

 その中にはついさっき会った大工のおじさまもいて、顔をくちゃくちゃにして咽び泣いていた。そんな彼を挟むように先ほどは姿のなかった他ふたりのおじさまもいて、大工のおじさまを慰めるように背中を擦ってあげている。

 

「うっうっ、俺たちのオアシスのエリシャちゃんが……! 羨ましいぞ、アンドラスの野郎!」

「エリシャちゃん、結婚なんてしないでくれ~!」

「レラちゃんと揃って一生俺たちのアイドルでいてくれ~!」

 

 三人の叫びに、そのすぐ隣にいたマルちゃんがぺたりと耳を伏せて顔を顰める。うるさかったのかもしれない。

 

 楽しそうに騒ぐ彼らに対して状況が飲み込めない私はただただぽかんとするしかない。こっそり見上げたアンドラスさんも私と同じような調子で、目を点にして状況の把握に努めているように見えた。

 

「……えっと? アンドラスさんがご婚約っていう話、だったよね?」

 

 にこにこ顔で私を見ているレラちゃんに恐る恐る訊くと、アンドラスさんがぐりんと首を曲げて私を見た。

 

「その話自体、俺は初耳なんだが」

「うん、そうだよ」

 

 戸惑うお兄さんに全く構うことなく、レラちゃんはにこにこしたまま無邪気に頷く。

 

「だから、エリシャさんと婚約したんだよね?」

 

 私は思わず叫んだ。

 

「し、してないよ!?」

「えっ! でもわたし、兄貴がエリシャさんに向かって『俺の家族になれ』って言ってるの聞いたよ! エリシャさん、頷いてたじゃない! これってつまり……婚約でしょ!?」

「それ、だいぶニュアンス変わってないかなあ!?」

 

 

 ――その後は、より一層爆発したような大騒ぎだった。

 自身の勘違いに気付いて肩を落とすレラちゃんと、そんな彼女を慰めるフォルちゃん。「せっかく労力を割いてやったのに、準備が無駄になった」とかんかんに怒るマルちゃん。諸手を挙げて大喜びするおじさま三人。他の常連さんたちの愉快そうに笑う声。お祭りのような大賑わい。

 〝婚約パーティー〟という名目だったらしい集まりは結局宴会にすり替わり、誰もが思い思いに飲み、食べ、歌う。

 

 その茹だるような会場の雰囲気にあてられて、私は食事をひと皿手にして壁際に逃げてしまった。

 この料理の数々は常連さんたちのお手伝いを募りながらアンドラスさんが作ったらしく、どれもとびきり美味しそうだ。

 だけど、みんなの中ではアンドラスさんもお祝いされる側だったはずなのに、彼が一番働いているように思えるのは私の気のせいだろうか。

 

「アンドラスさんもアンドラスさんで、誰のなんのためのお祝いかも知らないのに、こんなにいっぱい作ってくれたのね……」

 

 うっかりな勘違いとたくさんの優しさとで成り立ってしまった婚約パーティーに、ついくすりと笑みが零れる。

 そんな私の元にレラちゃんとフォルちゃんのふたりが並んで訪れた。

 

「ね、エリシャさん。……隣、いい?」

「もちろん、どうぞ」

 

 おずおず訊くレラちゃんに笑って頷く。すると彼女は少しだけ強張っていた表情を花咲くように綻ばせて、つつつと私の右隣へやってきた。フォルちゃんは反対側、私の左隣にぴったり並ぶ。無意識なのか、フォルちゃんの長くてもふもふの尻尾が腕に絡んで少し擽ったい。

 

「ねえ、エリシャさん。これ、受け取ってくれる? わたしとフォリィから。ちょっと過ぎちゃったけど……自警団に来て一年目、これからもよろしくね、ってことで」

 

 後ろ手に隠していたらしい小包を差し出されて、私は驚いてレラちゃんの顔と手元を見比べた。アンドラスさんに続いて彼女たちからもこんなサプライズがあるだなんて思いもしなくて、高揚に顔がかあっと熱を持つ。

 薄いピンク色の紙包みに綺麗な赤色のリボンが巻かれたプレゼントの中身はバレッタだとふたりは言う。

 感動に言葉もない私の反応を窺うように、フォルちゃんが横から身を乗り出して顔を覗き込んでくる。

 

「遅れちゃってごめんよぉ。だけどおいらたち、きちんと当日にプレゼントするつもりで準備してたんだよ。まあ……、おいらは案の定起きられなかったから、レラが渡しに行ってくれてたんだけどさ」

「でもそうしたら、兄貴がエリシャさんに『結婚してくれ』って言ってたから、ついタイミングを逃してズレこんじゃった」

「い、言われてないよ……。

 でも、ありがとう。凄く嬉しいわ……。さっそく、つけてみてもいい?」

「あ、じゃあ、わたしがつけてあげるね。後ろ向いてくれる?」

 

 包装紙が破けないように丁寧に取り出したバレッタをレラちゃんに手渡して、私は彼女に背を向けた。

 

「包みなんて捨てちゃってもいいのに。エリシャってば、律義だな~」

 

 包装紙を綺麗に折り畳んで懐にしまい込む私に、フォルちゃんは擽ったそうに笑う。その間にも頭の後ろではレラちゃんの指が器用にすいすい動いて、私の髪を纏めていく。

 

「――ごめんね、なんだか大騒ぎにしちゃって」

 

 会場の喧騒を目にしてか、レラちゃんはしょげたような声でぽつりと言った。悪意など欠片もない純粋な厚意で企画したお祝いだっただけに、勘違いで大勢を巻き込む大騒動になってしまったことに罪悪感があるのだろう。

 

「〝エリシャさんがわたしのおねえちゃんになってくれるんだ!〟って思ったら、つい突っ走っちゃって……。

 ――はい、できたよ、エリシャさん」

 

 ぱちんという音と共にレラちゃんは私の背中をぽんと叩く。その手は弱々しく、声にも力がない。振り向けばやっぱり彼女の柳眉はへにゃりと垂れ下がっていて、なんだか可哀想になる。

 

「そんな顔しないで。みんなが厚意でしてくれたことだっていうのはわかってるから」

「でも、エリシャさんの気持ちも確かめずに、わたし……」

「私の〝お手間〟もレラちゃんの〝ドジ〟も、お互いさまなんじゃなかったの?」

 

 私の脳裏には、いつかの朝のやり取りがさまざまと蘇っていた。寝癖を直してくれたレラちゃんが縮こまる私に言ってくれた「お互いさま」は、まさに今このときのためにある言葉に違いない。むしろ今またお世話をしてもらってしまったぶん、私のほうが彼女に寄りかかりすぎているかもしれない。

 

「それに私、レラちゃんのこういうお茶目なところ、大好きよ」

 

 レラちゃんの手を両手で取って微笑みかける。すると彼女もようやくにっこりと笑ってくれた。

 

「――ね~、エリシャ」

 

 不意に背中と肩口に重みがかかって、耳元でわざとらしく拗ねたような声がする。首を捻ると間近で澄み透った夏空色の隻眼がぱちぱち瞬く。

 

「おいらは? おいらにはなんかないの?」

「ふふ、フォルちゃんはねえ、……この可愛い尻尾が大好き」

 

 未だ私に絡んだままの尻尾を見ながら言うと、フォルちゃんは今度こそ本心から不満そうに唇を尖らせた。

 

「ええ~、尻尾だけ? ――……あ、そゆこと……」

「あ、やだ、寂しい。教えてあげるんじゃなかった」

「も、も~……、エリシャってば、たまに意地悪なんだよなぁ」

 

 ただそうやって不満げにしていたのも一瞬だけで、とうとう自身のふわふわの尻尾の所在に気付いた彼女は照れ臭そうに私の腕に巻きつく尾をお尻の後ろに垂らした。

 

「話を戻しちゃうけどね、さっきの」

「なに?」

「〝婚約パーティー〟のこと」

 

 ふざけて私から逃げ出そうとするフォルちゃんを腕の中に閉じ込めながら切り出す。

 

「……私、本当はアンドラスさんとそんなふうに言ってもらえて、少し嬉しかったの」

 

 じゃれるように藻掻いていたフォルちゃんの動きがぴたっと止まる。レラちゃんが零れ落ちんばかりに目を見開く。

 私はなんだか物凄く場違いなことを言ってしまったような気がしてきて、顔を赤らめた。

 

「ごめんね。お兄さんのことでこんなこと言われても、ふたりからしたら少し気まずいよね」

「――ちょっとその話、詳しく!」

「え、ええ……?」

 

 示し合わせたように口を揃えて叫んだふたりは、その勢いのまま私に掴みかかってきた。

 

 ――――そうして三人で団子状にくっつき合ってお喋りをしているうち、ふと視線を感じて私は食堂内に視線を巡らせる。しかし一見して特に誰もこちらを見ている様子はない。

 気のせいだったかと思いかけたその瞬間、人波の中からただひとりが私を真っ直ぐに見て、視線が強固に絡み合う。

 ――アンドラスさんだ。

 息を止めて、視線を注ぎ合う。

 だけど彼が私を見ていたのはほんの数秒にも満たないくらい短い時間で、そのうち彼は躊躇いなく顔を背けて訪客たちの相手に戻っていってしまった。

 

「――エリシャさん、どうかした?」

「あ……、ううん、なんでもない」

 

 不思議そうに小首を傾ぐレラちゃんに首を振って、私もまた彼から視線を外して彼女たちとのお喋りに戻る。

 

 私から顔を逸らした彼の耳がじんわり赤く染まっているように思えたのは、きっとあの鮮やかな紅赤色の髪が肌に映した錯覚に違いない。

 

 

 昨日夜遅くまで続いたパーティーの片付けが身に堪えて、まだ少し身体が怠い。

 それでも今日もなんとか起き出して身支度を整え終えると、辺りにはもういいにおいが漂い始めていた。

 いつものように配膳の手伝いだけでもさせていただくために台所に顔を出すと、アンドラスさんはお湯の煮立ったお鍋を前になにか物思いに耽っている様子だった。すぐ傍の調理台には笊に盛られた青菜が鎮座しているから、今から茹でるところなのだろう。

 でも、もうすでに山と朝食の用意があるようなのに、まだなにか作るのだろうか。

 

「おはようございます、アンドラスさん」

「お、おう、起きてきたのか。おはよう」

 

 水面の泡立つお鍋をぼんやりと見つめ続けていたアンドラスさんは、私がいることにようやく気付いたらしい。肩を小さく跳ねさせて私のほうを見た。お鍋から濛々と上がる湯気のせいか、顔が少し赤い。

 アンドラスさんは手元から視線を外しながらも、実に器用に青菜の茎の硬い皮を包丁で削ぎ落していく。余所見をしていても彼の調理の手つきに淀みはないが、見ているこちらがはらはらしてしまう。声をかけてしまったのは私のほうだけれど、手元に集中してほしい。

 でも私なんかが、よりにもよってアンドラスさんに調理の口出しをするのは烏滸がましいかしら……。

 憂慮をなんと伝えるべきか考えあぐねているうち、下準備を全て終えたアンドラスさんはついさっき削り切った茎の部分を拳で握り込むと、その手ごと青菜を湯に沈めた。

 

「――え、え、ええええっ!?」

 

 その動作があまりに円滑なので違和感なく見守ってしまったが、多分こんな調理法はないと思う。私はびっくりして叫んだ。

 

「昨日は遅くまで付き合わせちまったが、疲れてねぇか?」

 

 どう考えても呑気にお喋りなんてしている場合ではない。

 

「あ、アンドラスさん! 手が熱湯に浸かってますよ! 華族と言えど、さすがにそれは熱いのでは!?」

「い、いや、問題ねぇ。適温だ。これなら芥藍菜がいい色に茹で上がる」

「アンドラスさんも茹で上がっちゃいませんか!?」

 

 どんなに言葉を尽くしてもアンドラスさんは拳ごと野菜を煮ることをやめてくれず、救いを求めて顔を上げるとレラちゃんが目を輝かせてこちらを見ていた。

 もしかして私が無知なだけで、熱に強い華族にとってこの手の調理法は一般的なの?

 

――――――

こちらはSkebにてたわちゃんさん(@yamamori_sugar)にお願いした自創作キャラ夢小説です。Skebのリンクはこちら

 

素適な小説と掲載許可をいただきありがとうございました!