赤犬録


 彼らの母親のニーダという人が自分の子供に最高の医者になることを求めているのだということは、もちろん長男であるダニーが一番よく知っていた。彼は母親からどんなに辛く当られようと自分が母の理想に応えなかったのだから仕方ないのだと思っていた。その点末弟は優秀で、母親を満足せしめる完璧な存在だったのでこれを眺めてダニーは大変満足していたし、何をやっても自信を失うだけの自分に対比してなんでも平然とこなし、なおかつ超然としたグラシアの存在はなんだか収まりがいいな、とも思った。
 ただ、次男と長女の2人は彼から見ても“普通の”人だったのでこんな母親を持って哀れだと常々思っていた。父親のことは、長年一緒に暮らしていながら正直よく知らなかった。一家の営むウィンガー医院の院長であった父は、数年前右手首の炎症から院長の座を義息子のグラシアに譲るまでわりあい患者からも慕われる街で評判の医師であったと思えるが、4児の父親としての彼についてはあまりにも印象が希薄である。この自分が知らないのだから他の兄弟達にも分からないだろう。なにしろ、ダニーは父の初めての子供であるのだから。ダニーは末弟の生まれつき痛覚のほとんどないのを知っていたから、彼がどんなに学校で迫害されたり妬まれたり虐められても一向に気にする様子がないのを心の痛覚もないせいだと思って半ば神聖視していた。それなのに、血の繋がらない母親の葬式で彼が当然のように涙しているのを見た時はなんだかとても残念だと思った。ちなみに後々、グラシアが母親の葬儀で絶望していたのは喪失感でもなんでもなく、治療の方法がわかっていたにもかかわらずこれを成せずに全てが終わってしまったことに対する仕事人としての絶望だと知ったダニーは、ちょっとだけ喜んだ。彼は最後まで母の望む医者の中の医者だったのである。それでも結局のところ、彼女の悲願の元にあった願望、病の回復は成されなかったことになるのだが。
 
 それから、母親が死ぬ間際に家に頻繁に出入りしていた男がグラシアの初めての友達だと知った時も少し嬉しかった。ダニーには当然のように友人などいないが、幼少期からグラシアにもそれらしい人物が思い当たらないのは彼に釣り合わないと思っていた。自分と違い、弟は誰か素晴らしい友人を見つけるべきである。それもとびきり優れた人物を一人だけがよい、とダニーは勝手に思っていた。何を持って素晴らしいとするかはダニーにもよく分からなかった。ラルなんとかという弟の唯一の友人は、姓をフィーグナーと言う通り軍人であるらしかった。あるらしかった、というのは彼が弟を訪ねる時は常に軽装で、見上げるほどの大男であることを考慮しても、とても常日頃剣を振り回しているようには見えない身綺麗な紳士だったからである。鮮やかな色のコートを小脇に抱え、真っ白で清潔な開襟シャツの上にスエードのベスト、乗馬パンツに泥除けのゲートルという彼の出で立ちは、強いていえば官吏向けの商人や駅宿を束ねる地主の類に見えなくもない。この男はその見た目に違わず律儀なもので、敷地内の別棟に住まいする弟を訪ねるのに必ず母屋の玄関から挨拶に来た。これは見取り図上たまたま玄関口に出ることの多いダニーが「わざわざこちらに来ずとも直接訪ねるが良いよ。」と進言した後も変わらずだったので、少々頑固な性格でもあるらしかった。グラシアが竜都から帰った後に始まった彼の訪問は、母の葬儀の前にしばらく止んで、葬儀の当日訪ねてきたのを最後にダニーが彼を見ることはなかった。葬儀の前も後も、彼が来る時は決まって昼過ぎには到着し、グラシアと共に別棟で夕食を食べてから帰っていった。グラシアが痛覚のみならず嗅覚すらもなく、味というものを感じることがないのをよく知っていたダニーにしてみれば、弟が笑いながら食事をする風景を見ることになるなどとは思いもよらなかったので、後から思えば少々気味の悪いことだが、笑いあって食卓を向かい合う彼らの姿を窓ガラス越しに見るためにわざわざ母屋を出て夜風に当たりに行くこともあった。
 
 そういえば母が伏せる幾分前、急遽グラシアが中央の総合医院に招かれて朝から離れを不在にしたことがあった。彼はこの友人のことを思って慌ただしい準備の最中にも電報を打ったらしいのだが、この男の動きの素早さは郵便屋のそれを上回っていたのである。いつもの玄関口でダニーがそのことを告げ「せいぜい夕方には帰るだろうが。」と言うと、軍人はこともなげに「では、彼が帰ってくるまでここで待っていても良いだろうか。」といった。まさか何時間待つつもりなのだと思いもしたが、談話の上手いわけではないダニーはその後のやり取りを恐れて「どうぞ。」と一言だけいって薬品庫へと退散した。これがいけなかった。何度もこうして会っているとはいえ、末弟の客である以上、というか弟と彼の具体的な関係を未だに知らないくらいにはダニーはこの男に疎かった。ダニーの人見知りは生まれつきである。
 もしや弟か妹が後を取り次いでくれないだろうかと期待もしたが、そういえば今朝、妹の婚約者に会うと言って2人が出かけていったのを後になって思い出した。父と母は古い友人を訪ね先週から不在である。元来人見知りではあるものの冷血漢では無いダニーは、弟の客人をこの人気のない家の、しかも玄関口などという不躾な場所に放置したことがとうとう耐え難くなっていた。自分に客のないのをいいことに、せめてもの客間という存在をすっかり忘れていたのである。と、薬品の臭いを緩和するのに少しだけ開けておいた窓の隙間から郵便屋の蹄音が聞こえたので、これ幸いと郵便を取りに出かける風を装って男の様子を見に行った。今更客間に通すのもおかしいものだが、何とか言い繕うしかあるまい。ダニーは額や背筋に嫌な汗の吹き出るのを感じていた。ところが、肝心の大男は玄関から忽然と消え失せていた。まさか邪険な扱いに憤って帰ってしまったのだろうか、などと考えながら呆然と立ち尽くしていると玄関のベルが鳴った。扉を開けると、顔見知りの郵便屋がグラシアからの電報を持って立っていた。ダニーはあからさまに溜息をついて、郵便屋に
「君、この家から男が出ていくのを見たかい?黒っぽい大男だが。」
と素っ気なく尋ねた。郵便屋は一瞬きょとんとしたが、もじゃもじゃ頭の両脇から突き出した渦巻き状の角をゆっくり左右に振り
「いんや、見てませんぜ。」
といった。ダニーが手紙を受け取ると郵便屋はさっさと自分の馬と共に敷地の門まで引き返して行ったが、ダニーは扉から身を乗り出して入口の横にある環状の金具に立派な黒馬が繋がっているのを確認した。体格の割に少々背丈は低いが四肢は頑健で主人同様に大きな馬だ。凶悪な筋肉の塊じみた首から下とは対照的に、額に十字の白模様の入った頭の横には知性と好奇心に満ち溢れた黒々とした目を瞬いている。ダニーは玄関扉の内側に引き返した。どうやら客人は帰った訳ではないらしい。一度は引いた汗がまた体中に染み出すのを感じる。
 
「郵便かい。グラシアからかな。」
 
 突然背後で声がしたのでダニーが驚いて振り返ると、いつの間に戻ったのか件の軍人が笑顔で立っていた。色々と言うことはあるのにそれが上手く口に出せず無言で突っ立ったままのダニーに数歩近付くと、男は彼の持つ電報に視線を落とした。
「今まで何を、いや、どこにいたんです。」
男は差出人を確認すると満足気な顔をして、そのままダニーの顔を覗き込むように、意地の悪い笑みを浮かべた。
 
「あなたこそお客を置いてどこにいたんだ。俺は少々手洗いを借りに行っていた。」