掌編詰め


 実際、嶺桜に花を愛で蝶を追いかける癖がないとは言えなかったが、それにも増して、野山を駆け岩場を跳び回るといったおよそ男児の嗜みと思われることも彼は十分に全うして見せた。彼は立派に森の主の跡継ぎとして自らの領内を隅々まで知り尽くしていたのである。ある時は東の果て、小川の急流を石から石へ跳び越えた先にある大椋の木の下で子うさぎと宝探しをしたり、またある時は西へ、森の途切れる崖の上から、遥か遠く岩場の地平線へ蕩けていくゆく黄金色の夕陽を見下ろしたりもした。
 それでも、父雨萼が嶺桜を家の近所でしか遊んだことの無い比較的大人しい子供ように思い込んでいるのは、両親かシャウラが「嶺桜、嶺桜」と名を呼べば幾許も待たずに、ぴょん、と庭木の葉叢から彼がその蜘蛛の巣だらけの頭を突き出すからだった。風の声を聞き分けられぬ我が子のことだ、なにがどうして呼び声も聞こえぬほど遠くからすぐさま駆けつけられよう、というわけである。しかしこれにもちゃんと答えがあった。嶺桜が平屋の温かな住まいから遠く離れて子リスや子鹿と戯れている間、彼らの頭上に生い茂る青々とした木の枝には様々な羽を持った小鳥たちが常にいて、各々羽繕いをしたり、詩吟に励んだりと思い思いに過ごしている。これが相当に噂好きな連中で、風がすうと通り抜けていく度、それに乗った声やら音やらを密かに聴いているのだ。そうして、「嶺桜」の名前を聞き分けると一斉に騒ぎ立て真下にいる本人へと知らせてやる。「嶺桜や、お母ちゃんがお呼びだよ!」と言った具合に。息子本人から真相を告げられて尚、納得の行かない顔をしている夫へ、
「この森じゃそういうものなのよ。」
と一蹴、ミモザは軽やかに笑ってみせた。
(嶺桜/雨萼/ミモザ/シャウラ)
ーーー
 
 つい二週間前までは硬く冷たい鉄柱に頭を預けながら、たった今自分が体の下でくしゃくしゃにしている柔らかな毛布に思いを馳せていた。それなのに、こうしてようやく巡り会ってみればというと、肌にまとわりつく久々すぎる感覚はもはや違和感でしかなく、正直あまりにも落ち着かなかった。ここへ来てから毎晩のように見上げる安らかな木目の天井には閉塞感を覚え、目を閉じれば瞼の裏には荒野の中で唯一美しかった、あの滲んだ月明りばかりが思い描かれるようになった。その度に、あの時は常に頭を支配していた、飢えや寒さ、辛い、嫌だ、そんな感情にすらも、どこか懐かしさを覚える今の自分が酷く情けなかった。かと言って一人だけ壁と天井に囲まれたこの上なく安全な場所に身を置きながら、再び零街に戻る理由も、その勇気もない自分に心底嫌気がさした。そう、自分だけが逃げてきたのだ。過去を思い出にして美化するという行為は、最も恥ずべきことではないか。思い出の中の人々はまだそこに生きて居るというのに。
 適応することは思ったより簡単で、それは研究室を追われた時から十分理解していたし、時間が経てば新しい日常に親しんで、彼らをあの場所共々忘れてしまうことだってできるのに違いなかった。それでも何か、今だけはそんな少し先の未来が憎らしく、彼らと自分が過ごしたあのゴミの山と何も無い地平線を片時たりとも忘れたくないと願っていた。ただ、自分が忘れないでいるというだけのことが、彼らにとって何の救いにもならないというごく当たり前のことだけは考えたくなかった。
(ガープ)
ーーー
 
 目の前の享楽に溺れることしか考えられない、そう思う脳味噌の傍らで感覚は研ぎ澄まされ、自分の体中をくまなく巡る血の奔流までが耳の奥に轟くようだった。
 ―—いつまでもそうしている訳にはいかない。手術に必要な道具を取ってこよう。痺れた思考の中でも、階上で遭遇するかもしれない兄のことを考えてか、ほとんど無意識に口の周りを手近な布で拭った自分が酷く滑稽だった。つい、いつもの癖で布巾をゴミ箱に放り込んでしまったので後で回収しなければいけない。彼の血を、いや、彼の体のどんな部分も一欠片、一滴ですら手放す気などない。
 (グラシア)
ーーー
 
白紙に蝋を引くように、肌の上を滑る刃は赤い軌跡を残しながら下へ下へと躊躇うことなく進んでいく。鳩尾と臍が難なく直線で結ばれるその間、彼は一つも身じろぐことなく、また伏せた瞼を震わせることもなく、つうと自らを切り割いていく銀色をただ無機質に眺めていた。肋骨の浮き出た薄い胸はひどくゆっくりと、波に浮かんだ水死体のように規則的な上下を繰り返していたが、今や彼を心から生物たらしめるのはその肌に伝う赤それだけだった。とめどなく溢れ、零れていく鮮やかな命。舌先で掬えばどんなにか美味だろう、そんなことを考え始めたのがいつであったかも、もう思い出せない。死とは、こんなにも好く香るものであっただろうか。
(ラルティシアス)
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 神祖シャウラによって天界が創造されるまで、世界は一続きの大地だったので特別の名を必要としなかった。しかし、天界が創られてからというもの、人々はこの見上げる限り巨大な天空都市と区別するために元々あった大地を「地上」と呼ぶようになったのだ。同じく地上で生まれたものは地上人、天界生まれのものは天界人、そう呼ばれ始めた。
「地上人」に混血の精霊や人間たちが含まれる以前、遥か太古の「始まりの時」から、地上には六属の精霊が存在しそれぞれの領域を守り暮らしていた。火、水、風、地の精霊と影の精霊、そして光の精霊たちはそれぞれに村や集落を作り、森の中や海や川、砂漠や谷や山の上に長い時を穏やかに過ごしていた。しかし、川が山を削り出し、小さな火種がやがて森を焼き払うように、決して争いごとが無い訳では無かった。その度に開かれたのが精霊議会である。議会にはそれぞれの精霊王が出席しなければならない。精霊王とは、属性ごとに1人しか存在しえない特別な精霊のことである。王の素質は親から子へ受け継がれることもあれば、全く血筋の異なる者に発現することもあり、また相応しい者なき場合には、どこからともなく自然のただ中へとひとりでに産まれてくる者もあった。どの場合にしても、先代の精霊王が亡くなるまでは誰が王になるかは分からず、また受け継がれた素質を拒否することも不可能だった。正に運命の導きである王の継承、これを宣託するのが風の精霊王の役割の一つでもあった。
 (『精霊の王』)
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 かつて、異質と謗られ罵られ、忌避の対象としてこれ以上のものはないと言わんばかりに執拗に覆い隠されてきた彼の四肢だが、椋露屋においてはもはやなんの特徴でもありはしなかった。彼と同じやそれ以上に堅牢な鱗に覆われた鎧のような指先が、それでいて滑らかに艶めかしく蠢いて彼の耳や顎の形をなぞるのは、ライムにとって亡き母との思い出を想起するような、しかし、それとは明らかに異なる不思議な経験だった。
 椋露屋の娼婦たちは普段、仕事の時とは打って変わって無邪気で好奇心に満ちていたため、日常の退屈の最中に現れたこのハーフの少年は格好の遊び道具にされてしまった。来る日も来る日も何人もの賑やかな女に囲まれて、長屋や花街周辺を案内されたり異国の作法をあれやこれやと教えこまれたりで、初めての土地での戸惑いや、ふとした郷愁に苛まれる暇さえ与えられなかった。
 
 シンザイの北北西、ライオルールの街と港を見下ろす形で白虹山の斜面にみっしりと張り付いた建造物群が花屋街の外観の全てを担っていた。十字の大通りを中心に、それとほぼ直角に交わる十二の通りが縦に四本、横に八本と格子状に並んでいる。網目の敷地に詰め込まれた長屋形式の建物は三階建てを超えるものばかりだったが、どれも最上階に近づくほど装飾過多になり、花屋街のぐるりを囲う塀の外からはまるで城郭か何かかと見紛うほどの絢爛豪華ぶりを窺わせた。そして、そのほとんどがやはり、遊郭や旅籠だった。ライムの伯母の経営する椋露屋は大通りの中程に位置する中流の遊女屋で、縦長の共同住居とコの字型の座敷棟の二棟から成っていた。三階建ての住居棟の二階奥、最近まで空き部屋だった十畳の一間がライム達の新しい住居になった。
 ライムが女達にあちこちと連れ回されている間、双子の妹と幼い弟のことは雑用係として働く童女たちが代わる代わるで面倒を見てくれていた。中でも、ちょうどライムと同い歳くらいの三羽という雀羽の少女を双子は大層気に入ったようだった。三羽の方でも、元々子供や赤ん坊が好きだったので雑用の合間によく顔を見せては、ねだる双子にお手玉や手遊びなどを教えてやった。
この頃、ライムの伯母は彼に椋露屋がどういう所か全く説明しようとはしなかった。それどころか、遊女や童女たちには、彼に無用の知識を与えないようにと口酸っぱく言いつけているくらいだった。
(ライム)
ーーー
 
 他人の心がまったく覗けなくなった後も、セイルの完全な記憶能力は一向衰える気配もなく、その目に写ったこれまでの全てを今目の前にあるかの如く鮮明に思い返すことが出来た。チェロバエルはそれを
「リンネの贈り物ですね。」
と言った。
 セイルは観測者として、自らのあずかり知らぬ遠いところからリンネ──この世界の礎とも呼べる存在に選ばれたのだ。彼はリンネの瞳、備忘録としてその目を通じて世界の全てを記録している。曰く、リンネは自らの肉体となる観測者達に各々相応しい贈り物をしてあるのだという。腕(かいな)には有り余る武を、耳には孤独に耐える強い心を、そうして目であるセイルに与えられたのがこの底なしの記憶力なのだと。では、あなたは何を貰ったのだ、とセイルは目の前の男に尋ねた。リンネの声、チェロバエルは彼にしては珍しく幾許か間を置いて、そっと薄い唇を開いた。
「命です。」
その眼差しはいつの間にかセイルの視線を少し逸れ、その背後へと注がれていた。
広間に唯一設えられた暖炉の熾火が、セイルの背に遠くぬくもりを伝えながら、時に見放され静まり返った古書館の空気を僅かに震わせいていた。
(チェロバエル/セイル)
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