鏡の中の世界は白く輝いていた。先程の部屋とそう変わらない、磨きあげられた大理石の床が何処までも広がっている。しかし、そこには壁も天井もなく、空も太陽も、星すらもないのに眩く光るそれが世界全体を覆っていた。圧倒され後退ろうとした嶺桜は、はっとして足元を見下ろした。石の床は極浅い水面の下にあった。嶺桜は薄く張った湖の上に立っていたのだ。波を立てるような空気の動きは一切なく、氷のように張り詰めた水面が光を反射して遥か彼方の水平線と空との境界を曖昧にしていた。嶺桜の肉体だけがこの世界で唯一脈を打ち、大気と水と、あらゆるものを押し動かしていた。それでも、一呼吸する度に温度のない空気が肺を満たしていく感覚は、いずれこの白い世界が自分の中を埋めつくしてしまうのではないかという恐怖に取って代わった。無限に広がる空間の中では自分があまりにもちっぽけな存在に思えて、今にも泣き出しそうになりながら、嶺桜はただじっと息を潜めていることしか出来ないでいた。
どれくらい長い間そうして立ち尽くしていたかわからない。ひた、と水気を含んだ足音が聞こえた気がした。自分の他にもこの空間に誰かいるのだろうか。そうしてやっと、嶺桜は何故自分がここに来たかを思い出した。シャウラを探さなければ。
「シャウラ。シャウラ、どこにいるの!」
おずおずと呼びかけた声が虚空に飲まれていくのが恐ろしくて、嶺桜は無意識に大きな声を出した。二度三度と呼んでも返事はないが、自分の声に少しだけ励まされた彼は水たまりの中を当てもなく歩き出した。
探し求めたその姿は唐突に目の前に現れた。何もない空間を歩いていると思い込んでいた嶺桜は、見えない何かが濃い霧のように視界を遮っていたことをこの時になって初めて知った。霧の晴れた先で、シャウラは奇妙な形の磐座に腰かけ、祈りの最中のようにどこか遠くを見ていた。それがあまりにも静かで荘厳で、なんとなく邪魔をしてはいけないような気持ちになった嶺桜は足音をひそめて近寄り、彼の祈りが終わるのを待とうとした。シャウラはゆっくりと弟の方へと顔を向けた。白い光の中で、彼の顔は一層白かった。もともとどちらの性別も備えていない”かれ”のその顔は、今や一切の表情を捨て去って青年とも少女ともつかぬ曖昧な美しさを放っていた。無彩色の顔には目鼻や口が彫刻のように左右対象に彫りぬかれ、その中で唯一色彩を備えた左右で色の違う瞳だけが嶺桜の顔の遥か後ろを透かしみるように、虚ろな眼差しを投げかけている。
「嶺桜。」
シャウラは薄く開けた唇をほとんど動かさないまま、義弟の名を呟いた。嶺桜はとうとう兄に駆け寄ることも、顔を綻ばせて呼びかけに答えることも出来なかった。黙りこくったまま自分を凝視している幼い弟にかまわず、シャウラは音もなく立ち上がった。