医学研修生グラシアによって遺体を彼の家に埋葬されたロマエは幽霊として目覚める
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糸を断つように突如として途切れた意識が舞い戻るのも、また突然のことだった。
まず目を開けて視界に真っ先に飛び込んできたのは麦藁色のなにかだ。仰向けに寝転んだ俺の顔をそのなにかが隙間なく覆っていた。少し遅れて、全身を亜麻の袋にすっかり包み込まれているのだと悟る。
袋は湿り気を帯びて鼻や口にびたりと張り付いているのだが、呼吸をするのに不思議と苦労はいらなかったからか、こんな状況だというのに俺は焦りのひとつも懐かなかった。
ふと耳を澄ませば、袋の外では絶えずばさばさと音がすることに気付く。
――土だ。
なぜだか直感した。
俺は今、土中にいる。
初め、掘り出されているのだと思った。しかし徐々に重みを重ねられて歪んでいく亜麻袋に、埋められているのだと正しく現況を飲み込んだ。
やはり焦燥はなかったし、恐怖もなかった。いい加減あまりに動揺を覚えない心に自分自身訝しんだが、その僅か波立った胸の内さえもすぐさまどこかへ流され消えてなくなった。
苦痛もなにも、今はもう全てがない。悪い水を飲み込んだような胸糞の悪さもちっとも感じない。なぜ俺は土の中に横たわっていて剰え埋められようとしているのかという疑問なぞ、沸き起こりもしない。
今はただ、わざわざ自らの手を汚してまで俺を埋めようとする奇特な輩の顔を拝んでやりたくて堪らないという一念だけが満身を支配していた。
衝動のままに手を伸ばせば思いがけず勢いがついて、袋も土も突き抜けて宙まで飛び上がってしまう。さすがに驚愕して、俺を弔う者の顔を確かめることも忘れて素早く視線を巡らせた手足には、見覚えのない上等な衣類が纏わりついていた。
――現状把握に数日を費やしたあとでわかったことだが、どうやら俺はなんらかの理由で死んだのちに身柄を彼の医学研修生の家に持ち帰られ、その庭に埋められたようだ。そうしてなんの因果か、亡霊などという悪ふざけの塊のような存在として再びこの世に降り立ってしまったらしかった。
俺の今の住処は屋敷の離れを覆い隠すように植わるイチイの樹、その根元だ。そこには手のひら大程度の角石と、最早枯れ花かちり紙かも判然としない塵がある。
慣れたもので中空に胡坐を掻き、片膝に頬杖を突きながらにそれを見下ろす俺の脚は、穴も解れもない上質のズボンを穿かされている。靴はない。裸足だ。
幽霊にも着替えの概念があるものか、霊体として意識を取り戻した俺はやたらに上等な恰好をしていた。生前にはついぞ着たこともない御立派なそれはグラシーの私物に違いない。どうやら俺を持ち帰ったあとでわざわざ着替えさせたらしい。
謂れなき獣には過ぎた、随分な心配りである。みすぼらしい肉体には汚れひとつなく縫い目も美しいシャツやズボンはちぐはぐで、貴い御方の戯れで一時の恩情を得たようなありさまがかえって貧相さを増しているという点に目を瞑りさえすれば。
ただ、それでも彼なりに俺を悼もうとしてくれたのだということだけはわかる。その誠意を捻くれ僻んで受け止める気は、もうない。
生死の境を徒に踏み越えてしまってからというもの、氷水の中に頭から爪先までを丸ごと漬けているように、世界の全てが俺から遠ざかったようだった。
触覚や味覚だのは恐らく失せていた。鼻はずっとなにか布切れでも隙間なく詰められているかのごとく感覚がぼやけている。聴覚も、周囲の音という音が変に反響しているように聞こえたり、反対にすぐ傍の物音が随分遠くからのものであるように聞こえたりする。靄がかった世界との縁遠さは感情の類いさえ例外でなく、生前と変わらずまともに利くのは視覚だけだ。
最初こそ、それが物珍しくはあった。すっかり様変わりした自らの感覚を味わい尽くしてみたり、誰の目にも捉えられない身であるのをいいことに豪奢な調度品が居並ぶ屋敷内を無闇矢鱈に彷徨いてみたりした。
だがそんな感動もすぐに褪せた。加えて〝墓石〟が置かれたこの庭から長く離れられない身だということに気付いてからは、一層出歩かなくなった。
*
俺が空虚に時の流れの中を漂い始めて、それからどれほどの時が経ったものか。呆れるほど長い時間を縁もゆかりもない一家を眺めて過ごした事実とは裏腹に、ほんの一瞬の瞬きでここまでやってきてしまったような、そんな心持ちもある。
だが俺の心情がどうあろうとも置き去りにしてきた時の重みは変わらない。遠い時の中で屋敷の住民はひとり、またひとりと消えてゆき、グラシーは俺を忘れたように姿を眩ませ、気付けばこの家に住まう者はただひとりきり――赤い毛並みをした狗のみとなっていた。
*
乱反射する朝日の洪水が俺を埋め尽くすほど庭木を輝かせる。床に就いていた赤狗が起き出した気配を感じ取って、俺は母屋のほうへついと顔を向けた。
床に就いていたとは雖も、眠っていたわけではなかった。彼は重度の不眠症を患っているから、昨晩もいつもと同じようにベッドの上で退屈と寄り添いながら闇夜が薄らいでいくのをただただ待っていたのだ。今も、ようやく朝日が昇ったからベッドを這い出たというだけのことだろう。彼にとってベッドに入るという行為は睡眠のためなどではなく、一日のうちのただの時間割のひとつに過ぎない。
随分長いことここに居着いているせいか屋敷と俺の存在は丸きり同じものみたいに馴染んで、もうこの頃には屋敷のどこで誰がなにをしているのかがなんとなくわかるようになっていた。屋敷を訪れてさらに長く滞在するような者はいないから、ほとんどその能力は家主たる赤狗の足取りの捕捉にのみ使われるわけだが。
墓石を離れて浮き上がり幾重も壁を突き抜けて、真っ直ぐに赤狗の元へ赴く。ちょうど部屋を出るところだったらしい。ドアを力なく引いてのろのろと廊下に出た彼の顔色は悪い。白っぽい肌に、またさらに黒さを増した目元の隈が悪目立ちしている。
「――おはよう、赤狗殿」
聞こえるはずもないが挨拶をひと声投げかける。当然返事はない。ただの自己満足だから構わなかった。これだけの時間を共に過ごせば、ただの一度も言葉を交わしたことがなくとも一方的な情が多少なりとも湧いてくるというものである。
階下へ降りていく卑屈に丸まった背を見送ってから、俺は彼の寝室へ指を一本差し伸べた。すると細く開け放しにされたままだったドアはひとりでにぱたりと閉まる。
ある程度なら屋敷のものを動かせるようになったのも、先の能力と時を同じくして得た無用の長物だった。
今日は朝から業者が訪れる日であったらしい。玄関先で顔色悪く業者と向かい合いながら、「あれとこれと」といくらかの品物を選ぶ赤狗を背後からぼんやり眺める。彼はほとんど家を出ないから、日用品は家まで業者に来させてそこから買い付けるのが常だ。
買い物が一段落して業者が玄関先から立ち去ると、赤狗はいつも憔悴したように動かなくなる。ぐったりして、全身が鉛にでも変じたものと見えてその場からぴくりとも動かない。
そうしてきっかり三分、ようやくのろのろと床を這いずったかと思えば、すぐ脇に置かれた椅子にいかにも重たそうにぎしりと腰かける。それでまた、三分間動かなくなる。他者と対するということは彼にとって大変な負担であるらしい。
それにしてもどうせ家にひとりきり、咎める者もいないのだから休みたいなら休みたいだけ無気力でいればいいのに、わざわざ時限を設けてまで必死に心身を落ち着けている彼を見ていると心底生きにくそうな性分をしていると思う。俺が言うのもなんだが、幽霊にこんなことを思われては終わりだ。
虚ろな眼差しでぐったりする赤狗を尻目に表門まで浮き出て、郵便受けを覗く。取り残しの手紙がないかを確かめるためだ。郵便受けの中身は彼がいつも朝一番に検めているのだが、今日のように来客の予定があるときなどは気が散じてしまうらしく、しばしば幾通かの手紙が置き去りになっていることがあった。
今日は、郵便受けの中身は空だった。取り残した手紙はなかったのか、そもそも手紙が届いていなかったのか。
――ぐっと引き寄せられる感覚がして、やや面食らう。
どうやら長く庭から離れすぎたようだ。
俺の所謂魂などと呼ばれるものは、強くあの庭に結びついているらしい。こうして長く庭から離れていると、犬の首に結びつけた縄を引くように強引に連れ戻されてしまうのだ。それでも、目覚めた当初と比べればかなり自由が利くようになった。
無駄な足掻きはせずに引き摺られていく過程で、未だ椅子に腰かける赤狗についまともにぶち当たってしまう。すでに実体を持たない身ゆえに俺の身体は彼の身体をそのまま透り抜けて惨事は免れたが、遠ざかりゆくしょげた背中がぶるるっと身震いしたのが見えた。
他者と触れ合えないはずの俺の肉は、しかし生者になんらかの影響を及ぼすようである。触れるような素振りをすると寒気を齎すというのがそのひとつで、手を当てたり身体をすり抜けたりすると屋敷の一家は一様に尾の毛を逆立てて身を震わせていた。
そういえば、どんなにちょっかいを出してやってもグラシーだけはほとんど全く動じなかったことを思い出す。あれだけ冬季めいた見目をしていて、その実本人は冷えだのといった感覚とは無縁なのか。
――いや、だからこそだったのだろうか。彼が家にも寄り付かなくなった今となっては、最早確かめようもない。
やがていつも通り、墓石のすぐ傍まで連れ戻された俺は中空に胡坐を掻いて頬杖を突いた。見上げれば、幾本もの極太の麻縄を捩り上げて拵えたかのごとく様相を呈したイチイの樹。俺の粗末な身体は半分が虫に食われて、残ったもう半分はこの老木の養分になった。イチイの樹に絡め取られた角石ごと、これが今や俺の墓標代わりだ。惨めに生きてつまらなく死んだけだものにしては随分上等な寝床である。
角石をあしらうようにしてある、すっかり萎れて精気の失せた花だったものを無味乾燥に鼻で笑い飛ばす。
俺が意識を取り戻したばかりの頃は、グラシーは期待していたよりもいくらかまめな頻度で花を携えて通ってくれた。白い花が多かったのは、あの炭鉱町での雪を思ってのことか、そうまで感傷的な男には見えなかったが。歳月を経るにつれて〝献花〟の習慣は絶えてしまったわけだが、それを恨むとか拗ねるとかいう卑屈な感情は驚くことに真実欠片も沸き起こりはしなかった。心臓が腐り果てると人はこうも無感動的になるものか。むしろあの淡白そうな男が、ただ一度言葉を交わしたきりの俺をよくぞこれまで気にかけてくれたものだと感心すら覚えたのだ。
――だから。
――さく、と。
春の気配を帯び始めた庭の土を踏む足音に目を上げる。茫然自失の状態から立ち直ったらしい赤狗が、花を携えてこちらへのろのろと歩いてくる。
――だからグラシーよりもよっぽど義理のないはずの彼が、俺の面倒をこうもこまめにみてくれる理由がよくわからない。
グラシーが俺に花を供えなくなってからどれほど経った頃だったろうか、突然、赤狗は思い立ったように白い花を手に俺の元を訪れたのだ。それからは以前に供えてくれた花が枯れる頃を見計らって、彼は俺へ花を捧げた。温度も宿らない石に、まさか俺と同じように馬鹿らしくも情のようなものを懐き始めたわけでもなかろうに。
今日も今日とて、赤狗は花を置く。古い花をそっと除けて。唇が動いて、なにごとか呟いている。言葉は妙な具合に反響をしているから、やはり上手く聞き取れない。
俺はそのことが今日に限って惜しく感じられた。触れられもしないくせに、俺の墓石に触れる赤狗の手に思わず自らの手を重ねていた。
だが、赤狗は視線を跳ね上げて前を見た。
いや、俺を見た。
「――え、」
貫くように目が合った。
世界が、近付いた。
***
赤狗が俺という存在を認識して、そのあと。力なく蹌踉めき後退りしながらなんとか家へ戻っていった彼は、この非現実的な事象について見て見ぬふりを決め込む腹積もりでいたようだ。今まで親切にも花を献じてくれていた男とは思えぬ非情さである。
だがしかし、俺もその決定には特に口出しをせず黙って眺めること幾日。そのうちに赤狗は心身の調子を大変に崩して寝込み始めた。彼を長らく眺めてきた俺にはなんとなくわかり始めていたが、幽霊を見た恐怖というよりかは、見も知らぬ他人がつかず離れず自分の傍にいてかつ一向に消えていかないという心労からすっかり参って疲弊しているようだった。
丸きり自分が被害者のような顔でいるが、俺だって予想外なのだ。あの日からというもの、俺は今度は庭ではなく彼から離れられなくなってしまったのだから。
「あのさ、」
こんもりと膨らんだベッドの傍らで胡坐を掻きながら、俺は彼へ語り掛ける。
「頼まれもしやしなかったのにあんたが勝手に手出しして、それで繋がっちまった縁だろ」
掛け布団から僅かはみ出た、神経質そうな造りの指がぴくりと震える。
「この際責任取って、可愛がって大事にしてくれよ。生憎と御覧の通り可愛げはねえが、飼われるのには慣れてるからさ」
俺の声が聞こえていたということは明白だった。だのに往生際悪くまた聞こえないふりで、元よりそのつもりだったのだと言わんばかりに今さら開け放しのカーテンに手が伸びていくから、俺は優しくとどめを刺してやるつもりで指をひと振り、代わりに閉めてやった。音を立てて閉まったカーテンに、青褪めた膚をした手が怯えたようにぎくりと強張る。
「手始めによ、自己紹介からってのはどうだい、赤狗殿」
「…………」
「俺はロマエってんだ。ドーゾよろしく」
これまでいったい誰が散々閉め忘れの扉だの窓だのなんだのを閉めてやり、かつ郵便受けの底に忘れ去られた手紙を掘り出してきてやったと思っているのか。愚鈍な所作とは裏腹に俺よりもよほど賢い頭をした彼は迷うことなくその答えに辿り着いたらしく、狗を孕んだ布団の山はとうとうぴくりともしなくなった。
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こちらはSkebにてたわちゃんさん(@yamamori_sugar)にお願いした自創作キャラ夢小説です。Skebのリンクはこちら
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